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映画「いまダンスをするのは誰だ?」はこうして創られた!(第1回)

こんにちは😊
映画監督の古新舜といいます。
私は、独立系映画を長年続けて参りました。
初監督作品は、「ノー・ヴォイス」という映画を製作し、犬猫たちの殺処分という現実を如何にしたら解決していき、人間と犬猫とが共に幸せに暮らせる社会を如何にして実現していけるかを描きました。
2作目は、「あまのがわ」という映画を製作し、寝たきりの方が分身ロボットOriHimeを通じて、誰しもが活躍できる社会を如何にして実現していけるかを描きました。
最新作は、今回の投稿のタイトルにもあります「いまダンスをするのは誰だ?」(略して、いまダン)です。パーキンソン病という難病をテーマに、難病の理解とその方々の就労環境の向上、包摂性のある社会環境を生み出していくために製作を行いました。

なぜ、今回このnoteを投稿しようと思ったのか。

お陰様で、全国で上映・講演活動をさせていただいており、古新とお会いすると、「自分の話をもとに映画創って欲しい」「自分も映画製作をしたい!」「映画ってどうやって創られるの?」という声がわんさか届くため、今回のnoteを執筆しようと考えました。映画製作の裏側をお話しするとみなさん驚くほど、そんなに大変なの?と目を丸くされます。一様に皆さん大変に驚かれるので、映画が創られるまでの過程をこと細かにお伝えすることで、映画製作を志す方への参考になり、かつ映画鑑賞の上で、製作者はここまで人生を賭けて作品と向き合っていることへの理解のつながればと思った次第です。

あくまでこれは私の体験談ですので、他の製作者が全て同じかといえば、そうではない例も多々あるかもしれません。しかしながら、映画業界に長年身を置き、たくさんの仲間たちや関係者の話を至るところで聞く限りでは、他の映画製作者も生半可なあぐらをかいた状況で、映画製作に向き合っていないことは事実だと思います。

今回は、私の最新作「いまダン」を元にして、企画がどのようにして立ち上がり、どのようにして仲間や資金を集め、そして公開に至ったかを事細かくお話したいと思います。
1冊の本になるほどの分厚い記述をかなり絞ってまとめても、それ相応の分量となり、全15章をnoteでは全8回に分けて、お届けしたいと思います。
今回は、第1回目の内容(第1章〜第3章)となります。

全8回の構成です

1:メジャー映画と独立系映画

映画業界には、上映する劇場の配給網が決まっている大手製作会社主導のメジャー映画と、私のように中小企業または個人の製作者が、配給先の決まっていない状態で映画製作に臨む独立系映画(インディペンデント映画)というジャンルがあります。
米国アカデミー賞を受賞した「ゴジラ-1.0」は、代表的なメジャー映画作品に挙げられます。この作品を製作したのは東宝ですが、日本には三大配給会社の「東宝」「東映」「松竹」があり、それらは全国で公開できる劇場を有していて、複数の会社が共同で出資する製作委員会方式を取られることで、製作予算は数億円〜十、二十億円程度で製作が行われます。
メジャー映画は収益性を最優先して製作されるため、ヒットした小説や漫画を原作とすることが多く、完成された作品も企画時点で、配給館数や公開日が確定されているため、決められたフォーマットで製作が進行していきます。
一方、独立系映画は、公開する劇場が決まらないまま企画が立ち上げられます。資金調達も最初から十全に保証されていることは少なく、企画の開発と並行して、スポンサーを募り、キャストの選定も行われていきます。流動性の高いプロジェクトであるために、作品が完成しない、公開されないというリスクと向き合いながら、プロジェクトを進めていきます。
映画は企画から発起して公開までに3〜4年かかることは少なくなく、かの有名な「おくりびと」も、本木雅弘さんによる企画の構想から公開まで10年近くかかったと言われるほど、映画は長い年月と企画開発、資金調達、撮影、編集など多くの工程によって生み出されます。それだけ苦労した映画が完成した映画が興行として不首尾に終わることで、倒産をする制作会社も多々あります。
それがゆえに、最初は独立系映画をしていた監督も、さまざまな評価を受けるなかで、メジャー映画作品を目指す監督も少なくありません。「カメラを止めるな!」で有名な上田慎一郎監督も、独立系映画から現在は、メジャー映画を手がける監督へと成長されていったお一人であります。

上田監督とは、いろんな映画祭で成長していった大切な仲間です!
彼の活躍をとても嬉しく感じています😊

華やかで夢のある映画業界ですが、裏側では、作品にかける熱い想いは凄まじく、人生を投げ打ってでも作品を完成させる執念があります。人によっては自宅を抵当に借金をして作品を創る方も少なからずおられます。また作品を創る監督、資金調達や配給先を決めるプロデューサー以外にも大変多くのステークホルダーが関わり合って、作品が産まれていくので、想いや憧れだけで映画は創れないという現実があります。
とりわけ独立系映画は、メジャー映画とは毛色が異なり、このような手順で順序よく製作が進められるというフォーマットが確立されていないのです。誰かの想いから企画が始まることもあれば、映画好きの人から資金の提供が受けられるので映画を企画が始まることもあります。地域の団体がプールしていたお金を使って、製作会社に地域振興を目的とした映画の企画が打診されることもあります。このように決まった始まり方があるわけではないので、製作者はさまざなな工夫をこなしながら、プロジェクトを進めていきます。
映画が公開されたといえども、「カメ止め」のように爆発的なヒットをする作品は一握り(ほぼ皆無)であり、多くの作品は製作者の持ち出しや収益の赤字を被りながら、映画を世に輩出しています。作品が完成まで至らない、日の目を見ず、公開がされない映画も数多くあると言えます。

2:映画製作の流れ

映画製作の工程は大きく3つに分けられます。
企画開発・脚本制作・資金調達・ロケハンなど、撮影を行うための準備である「プリ・プロダクション(プリプロ)」、俳優とスタッフがロケ地に一堂に会し撮影を行う「プロダクション」、撮影した素材を編集し、CGをつけたり、音楽を施す「ポスト・プロダクション(ポスプロ)」です。ここで重要になってくるのが、脚本制作になります。
映画の設計図とも言われる脚本は、作品の完成形をステークホルダーと共有し、監督はさまざまな関係者と連帯を行いながら、作品を陶冶させていきます。プロデューサーは、脚本の世界観と監督の演出プランをもとにして、資金調達を行い、映画製作をいう事業を牽引していきます。
例えるなら、映画監督は建設業界でいう建築家、脚本家は設計士、プロデューサーは社内で経営を切り盛りする経営者といったところでしょうか。
どちらも表裏一体の関係で、作品性がなければ多くの観客に作品を届けられず、資金がなければ作品は夢物語に終わります。資金が潤沢にあれば、良い映画といえば決してそうではなく、その代表的な例としては、「ファイナルファンタジー160億円という予算に比して、興行収入は20億円に留まってしまった(歴史的な大赤字を出してしまった)例があります。大きな予算をかければ、それだけヒットするというわけではなく、「カメ止め」が300万円で32億円の興行収入を叩き出したように、映画はやはりストーリー性や作品性、作家性、それ以外の見えない要因(社会情勢・話題性など)が重要となってくるわけです。
億単位で製作した作品が赤字になったり、大ヒットしたりする不確実性の高いコンテンツですので、映画は博打や宝くじによく例えられることがあります。それだけ大きな夢を掴めるものでもあり、反面ビジネスとしての事業性は困難を極めるジャンルとも言えるわけです。

3:なぜ古新は映画監督を目指したか?

そんなギャンブルみたいな業界になぜ足を踏み込んだか?私を初め、多くの映画監督や映画制作者には、さまざまな理由があるといえます。
私が長らく多くの映画製作者からこの問いの回答として聞いてきたものには、「青年期に観た映画が影響を与えた」というものでした。
世代的には、「ニューシネマ・パラダイス」に影響を受けた方が多かった印象です。その流れで、高校時代は8mmフィルムで自主映画を創ったという話をよく聞きます。
そんな中、私はとても異色だと思うのは、私は映画が大嫌いだったのです。
青年期、父親と犬猿の仲で、そんな父親が好きだった映画が嫌いだったわけです。「若大将シリーズ」「寅さんシリーズ」は、全ての回を観たのではないかと思っています。当時は、毎回同じストーリー構成をよく毎年創り続けているよなとこれらシリーズを鼻であしらっていたのですが、映画の基礎と十全に学んだ今となってみれば、その同じストーリー構成で多くの観客を魅了し続けたこれらの作品に敬意しかないわけです。
ちなみに寅さんの渥美清さんが母校の大先輩にいて、映画評論の宇多丸さんが母校の卒業生ということも、何か不思議なご縁を感じてなりません。

大学時代、私は物理学と心理学をダブルメジャーで専攻し(二年・三年次を物理学を履修し、心理学(人間科学部)に大学四年次に週五で学部に通い、臨床心理士になる勉強をしていました)、卒業後は、就職活動をしたくないという理由から、駿台予備校の物理の講師をやっていました。と同時に、母校の同じ学年の知り合いから、映画業界への誘いを受けることで、映画の助監督をするようになりました。
自分がまさか映画の業界に入るなんて夢にも思っていなかったので、下積み時代は本当に大変でした。無休無給で働かされた映画の現場では、先輩も誰もいない中、香盤表(進行スケジュール)を書かされたり、衣装に管理をさせられたり、大手代理店の社員によるハラスメントなども横行していて、まさに目を丸くするようなことばかりでした。睡眠時間2、3時間で働くのは当たり前、未成年に強引に酒を飲ませる、車中仮眠をしようとする人間を無理くり起こさせるなど、自分があたかも殿様のような振る舞いをしているわけです。いろんな現場に参加をしましたが、どの現場も過酷な環境ですので、途中で逃げ出すスタッフが続出していましたが、当時の自分は、途中で逃げ出すのは嫌だという根性で、最後まで喰らい付いていました。ボロ雑巾のように扱われましたが、そういうことを経験できる最後の時代だったのではと感じています。その経験しか知らなかったので、自分が短編映画の監督をやっていた時は、スタッフさんを大切にできなかったということがありました。この負のスパイラルはどこかで変えていかなければならないという使命も自分の中では強くあるわけです。

助監督時代、駿台予備校の講師と映画の現場をパラレルで行っていました。予備校では、講師室で「先生、お茶どうぞ」とお茶を差し出され、撮影現場に出向けば、「お前、遅いぞ、お茶持ってこい!」と怒鳴られて。予備校講師は年齢にしてはそこそこの金額を稼いでいました。そのため、「おまえは予備校で稼ぎがあるんだから、下積みは無給でもいいよな」みたいなことを言われた覚えがあり、社会経験の浅い自分は、芸能界の下積みはそんなものかもなと納得して働いていました。

ヤクザにも追われることも経験しましたし、関係者に騙されて100万円を不当に請求されたこともありました。知識がなかったので、そのまま100万円を父親にすがるようにして借りて、その輩に払いましたが、父親は「ほらみたことか、芸能界なんて怖いんだよ」と酒を呑みながら、泣いていました。本当に申し訳ないことを父親にしたと思います。
映画業界がこんなにも恐ろしいのかと、自分の社会経験の無さと人を見定めることができない経験不足を切実に味わうこととなりました。当時は頼れる人間が誰もいなかったので、警察に相談しに行ったことを覚えています。(さすがに取り扱ってもらえませんでしたが😅)今となっては笑い話ですが、あの修羅場をよく生きられていたと思っています。そして、今の映画業界は昔に比べて、だいぶ環境が変わってきたと信じたいです。大変な業界であることに変わりはないと思いますが、今自分が助監督を始めていたら、見える景色は全く違っていたのかもしれません。

この経験をしたのが、下積み時代の23歳からだったのですが、この経験は、自分にとってカルチャーショックでありながらも、学歴が一才通用しない世界があることを社会人一年目にして知ることができて貴重な経験でした。

こんなことを語っていると、いつもの2時間の講演会になってしまいますので(笑)、ここから「いまダン」まで話をスピードアップしてお話を進めたいと思います。

(お読み下さり有難うございます。第2回に続きます。次回をお愉しみに)
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