見出し画像

ルディ

 今は、賢い子供にとっては苦しい時代かもしれない。賢い子供というのは、川や海で拾った小石や小瓶を宝物にしたり、夢の中で子犬を飼ったり、突拍子もない物語を思いついたりするような子だ。
 人の目に映ってはいても、今までじっくりと見てもらえなかったものに気づくことが出来る子のことだ。
 ルディ・へーベルはまさにそのような子供だった。

 私がルディと初めて話したのは小川の近くだった。彼はいつも小川にいた。水が好きなのかもしれない。小川の底には苔の生えた丸太が沈み、そこに太陽の光が差していた。穏やかに流れる水は透明で、とても澄んでいた。ルディは川に手を浸し、水しぶきを上げた。
 私はそっとルディのそばまで行き、彼の顔をみた。淡い茶色の目、きちんととかしつけられた焦げ茶色の髪。端正な目鼻立ち。とても真面目そうに見えるが、彼はそれだけの子ではなかった。彼には想像力があった。

 ルディがこの町に引っ越してきて私と同じ学校に通うようになったのは一ヵ月近く前だが、話したのはこの時が初めてだった。真面目そうなルディはどことなく近寄りがたく、みんなとあまり打ち解けていなかったが、彼は全く気にしていなかった。でも私は、彼と遊んでみたかった。彼はどこか他の生徒と違っていた。何か違う空気を纏っていた。
 彼が町はずれの小さな家に引っ越してきて、母親と祖母と暮らしているのは知っていた。父親は仕事であちこち移動しているらしい。

 「僕はウォルターっていうんだ」私は自己紹介した。
 「知ってる。僕はルドルフ。ルディと呼んでくれ」彼は微笑みながら言った。
 私たちはその瞬間から親友になった。

 イギリス連邦王国のひとつであるこの国のこの町は海のすぐ近くで、港には船が停泊し、港の近くには缶詰工場があった。缶詰工場の数は、どんどん増えていった。工場で儲けた成金が豪邸を建てる一方、この町には畑や果樹園や牧草地といった昔ながらの牧歌的な風景も広がり、古いものも新しいものもどちらも共にあった。
 私の父親も缶詰工場で働いていた。暮らしは裕福とは言えなかったが、私は別に贅沢は好まなかった。自然があれさえすればそれでよかった。そしてルディと一緒だと、今まで気づかなかった小さな植物や虫や鳥の存在に気づくことが出来た。私たちは白樺と樅の林で毒キノコを観察して遊び、たまに岩だらけの海岸にも行った。

 赤茶色の岩に座り、海を眺める。大きくそびえた岩はまるで大聖堂のようだ。青い空に、紺碧の海。カモメが飛び、ひっきりなしに鳴いている。ルディは変わった模様の小石を探している。彼は宝探しが大好きで、いつもポケットには色々なものが入っていた。
 「小瓶が落ちてた!」ルディは小さく平べったいガラスの小瓶を見つけた。
 「これは百年ぐらい前の瓶じゃないかな。きっと薬瓶だよ。毒薬かも。どこか遠い国の悪者が誰かを毒殺したあと、海に捨てたんだよ」
 その瓶は私にはそこまで古くは見えなかったが、ルディがそう言うと本当にミステリアスに見えてくるから不思議だ。ルディと一緒にいると、自分が物語の登場人物になった気がした。

 ルディの父親は、将来ルディに聖職者になってほしいらしい。
 「君、牧師になるのかい?」私は聞いてみた。
 「いや、牧師になんかなりたくないよ。僕は船乗りになってこの海をどこまでも遠くに行きたい」
 そして私たちはふたりが船乗りになり、大海原の真ん中で海賊船に襲われ、奴隷にされる様子を想像をして楽しんだ。
 港の近くには工場が見えた。煙が出ている工場の煙突は、教会の塔よりも高い。人々の信仰の対象は、神ではなく、工場で作られる大量の物資になってしまったのかもしれない。
 
 ある日ルディの家に遊びに行くと、庭に置かれた物干し竿に張られたロープに真っ白なシーツが数枚干してあった。
 ルディはその下に座り、風を受けて膨らむシーツを見上げていた。
 「何してるの?」私は近づいて聞いた。
 「こうやって見ていると、まるで船の帆みたいなんだ」
 私もルディの隣に座り、見上げてみた。青い空。はためく真っ白なシーツ。その瞬間、鉛色の海が、船に当たって砕ける銀色のしぶきが、潮風のにおいが、私たちの周りを包んだ気がした。

 また違うある日、私たちが薄暗いエゾ松の林を歩いていると、小径を発見した。道を辿ってみると、崩れた石垣が見えてきた。苔や蔦に覆われた古い石垣は、ぽっかりと空いた空間を囲っていた。空間の中には林檎の木が数本生えていて、あとは雑草と、野の花に覆われていた。
 春の林檎の木は薄桃色の花を咲かせ、地面には黄色い水仙やタンポポ、青い勿忘草が大量に咲いていた。よく見ると、雑草の下に煉瓦で作った花壇のようなものも見える。
 「騎士の庭だ!」ルディは顔を輝かせた。私たちにはここが、かつて騎士が住んでいた城の庭に見えた。何百年も昔に打ち捨てられた騎士の庭に……。
 「ここは宝物を隠すのに持ってこいの場所だ」

 ルディはこの庭がひどく気に入ったようだった。私たちはこの後も何度もここへ来た。ルディは、“大好きな庭へ”と、この庭に手紙も書いたらしい。いつもルディの夢の中には薄茶色の子犬が出てくるらしいが、最近見た夢ではこの庭で走り回っていたらしい。ルディは庭に来るといつも崩れかけた石垣の居心地の良い場所に座り、日の光を浴びていた。日に当たった石垣もぽかぽかと暖かかった。
 
 光につつまれたような日々が一年ほど続いた。しかし、それからルディ一家は忽然といなくなってしまった。突然引っ越してしまった。
 1914年の夏のことだった。
 私は焼けつくような夏、一緒に森や海で遊ぶ予定だった親友を突然失ってしまった。
 
 そしてそれから程なくして戦争が始まった。世界を巻き込み、大量に死者を出すことになった戦争だ。ドイツ系の移民であったルディ一家は、私たちの敵になったと言ってもよかった。ルディたちがいなくなった原因が戦争のせいなのかはわからないが、私たちの町に住んでいる他のドイツ系住民が、スパイの疑いをかけられ、窓ガラスを割られたこともあった。

 若者たちは志願し、兵士となり、戦地へ赴いた。
 1918年に戦争が終わっても、戻って来ない者も少なくはなかった。
 手足を失った者も、不安定な精神状態が二度と治らない者もいた。

 そして終戦から20年が過ぎた。
 20年なんてあっという間だ。
 私は終戦の数年後から今現在まで、父親と同じ缶詰工場で働いていた。
 他にやりたいことは無かった。
 毎日同じ日々が続いていた。これからの人生に特に希望らしきものは無い。
 工場は国中に増え続けていた。過剰な物資。止まらない歯車。そびえたつ煙突。教会の塔を凌駕するほど高い煙突から吐き出される煙……。
 
 そして、なんと再び戦争が起きた。1939年になっていた。
 今度は私も徴兵されるだろう。私の心は不安どころか、少しわくわくしていた。同じ繰り返しの毎日から解放されるかもしれないからだ。
 守るべきものが無い私は、戦死してもどうということはなかった。
 このあたりで人生に蹴りをつけるのも良いことなのかもしれない。

 この町で作られる魚の缶詰は、戦場の兵士のためのレーションとして爆発的な需要を迎えた。缶詰のラベルには、“VICTORY”の文字が印刷されるようになった。全ての技術や発展が、戦争に向かって収斂されていった。

 そういうわけで私は、前回の世界大戦の前に忽然といなくなってしまったルディを思い出したのだった。今はどこにいて何をしているのだろう。
 私は、ルディと一緒に過ごした“騎士の庭”に行ってみることにした。あの場所には、今までにも何度か行っていた。しかし、ルディがいなくなってしまった悲しさに耐えられず、長居は出来なかった。そして、時が過ぎていくにつれ、庭の存在自体を忘れていった。
 
 あの時と同じ小径を歩く。昔は広く感じたエゾ松の林も、そんなに大した規模ではない。庭自体も大して大きくはない。ただのありふれた廃墟だ。
 崩れかけた石垣が見えてきた。初めてここを見つけた20年前は、春で花ざかりだったが、今はほぼ緑一色だ。
 そよ風が草を揺らす。すっきりとした植物の香りがする。白い蝶が飛んでいる。
 私は、ルディがいつも腰をかけていたお気に入りの場所に近づき、座ってみた。ここに座るのは初めてだ。そして、ルディのように目を閉じて日差しを浴びようとしたが、今日はあいにく曇り空だ。

 ふと下を見てみると、地面の土の中から何かが突き出ているのが見えた。四角いブリキの缶のようなものだ。
 私はそれを掘り返してみた。手の平サイズぐらいの、ブリキの缶だった。塗装が剥げかけているが、船の絵がうっすらと見える。
 蓋を開けてみると、中には不思議な縞模様のついた丸い小石と、ガラスの小瓶と、白樺の木の皮が入っていた。木の皮には、“ウォルターへ”と書かれていた。
 その瞬間、青い空に翻る真っ白なシーツが見えた気がした。

 “ここは宝物を隠すには持ってこいの場所だ“
 ルディが言っていたのを思い出した。
 彼は、私なら見つけてくれるだろうと思って、旅立つ前にここに贈り物を埋めておいたのだろう。
 見つけるのに20年もかかってしまった。
 そしてまた世界は20年前と同じ悲劇を繰り返そうとしている。

 今の時代は、賢い子供には苦しい時代だろう。
 ……いや、今だけではなく、昔も、これからも。

 私は小石と小瓶を手の平に乗せた。
 これは私の一番の宝物だ。私が死ぬまでずっとそれは変わらないだろう。死は近いかもしれないし、遠いかもしれない。それはみな同じだ。

 その時、曇っていた空から一筋の日の光が差した。
 私の隣に座り、目を閉じて光を浴びるルディの姿が見えた気がした。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?