「それでも○○」
「ほぼ日刊イトイ新聞」に、糸井重里さんが毎日執筆を続けている「今日のダーリン」という日替わりエッセイがあります。それの2月1日ぶんの更新を見てハッとすることがありました。
いつもは「ともだちに話しかけるように書いている」というこの連載。その日、糸井さんは「このスペースを、原稿用紙だと考えて(中略)書き下ろしの本をつくろう」と思いつきました。それで、さっそく書きはじめたのはよかったのですが、なんだが調子がでず、けっきょく書くのをやめてしまったんだそうです。
これを読んだぼくは、はじめは「糸井さんでも、これまでに原稿用紙を何枚も書いてきた人でも、ふだんと少し環境が変わると思うようにいかないもんなんだな」と思いました。人間がいかに環境に左右される生き物であるか、ということに気づかされたわけです。と同時に、その人のベストなパフォーマンスを引き出すには、それに適した環境があるんだよなと思い直しました。そこには外的なものだけでなく、フィジカル的なからだの調子やメンタル的なこころの調子といった、内的なもの(≒コンディション)も含みます。
生きているといつも通りにいかないことって、誰しもあることだと思います。そしてそうなったときに「自分がヘタになったのかな」と責めてしまう人がいます。けれど、「人間は環境に左右される生き物だ」ということを知っておくと、思い切って「今日はなんか環境が悪い」と言い訳をして、うまくいかないことにこだわりすぎない、というのも生きやすくするひとつの方法かもしれません。
と、そこまではそういった考えをしていました。
ここで、もうひとつ大事なことに気づきます。糸井さんは、それでも書いているんです。原稿のように書くことは、その日はやめてしまいましたが、それでもそのやめてしまったことをコンテンツにして、記事の更新はやめていないんです。
うまくいかないとき、調子が乗らないやり方はきっぱりとやめてしまう。でも、毎日更新するという結果にはこだわる。これが、ずっと活躍しつづけ、人から必要とされる人の態度なんだろうなと、ハッとしました。いや、ハッとしたというよりも、どちらかといえば「じーん…」としました。これ、油断してると逆になっちゃうんですよね。やり方にこだわって、結果にこだわれない、と。
糸井さんがこのエッセイを書く4日前。世界的にベストセラーにもなった『嫌われる勇気』の共著者で、株式会社バトンズの代表を務める古賀史健さんがこんなnoteを書かれていました。
一緒だ。うまくいかないときは誰にでもある。「それでも書く」。みんな同じなんだな~と思いました。そして、この「それでも○○」というのは、書くことだけではありません。
ラジオパーソナリティだったら、「それでもしゃべる」かもしれないし、
野球選手だったら、「それでも振る」かもしれない。
みんな、それぞれの「それでも○○」を持っていて、その「それでも○○」をやり続けられる人が、必要とされ続けるんだろうな。おふたりの「それでも書く」に触れて、そう思いました。
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