井上さんと一緒に、「もったいない子育て」をやめる旅に出た #はじめに
書き手:小林浩子(ライター・編集者/小学生の親)
新聞記者、雑誌編集者などを経て、フリーランスのライター・編集者に。 自分の子育てをきっかけに、「学び」について探究する日々を重ねる。現在、米国在住。
「子育てはどうしてこんなにつらいんだろうーー」
そう思ったことはありますか。私はあります。
ライター/編集者として、「仕事と子育てを両立すること」に疲労困憊している親(特に母親)の姿をたくさん見てきました。ちゃんと育てなきゃという内側からの使命感や、ときにはプレッシャーを感じながら、何かに追われるように懸命にやりくりして毎日を乗り越えている姿を目にしてきました。
少しずつ社会の仕組みはよい方向に進んでいるとはいえ、母親が担わされている役割はまだまだ多いのが現実です。「毎日をこなすのが精一杯で、立ち止まって何かを考える余裕なんてない」という声もよく聞こえてきます。
多忙な状態では「本当は、こんな子育てはしたくないな」と心のどこかでひっかかっても、「忙しいし、現実は仕方ないよね……」と、気づかないふりをして流してしまうこともきっとあるでしょう。
一方、世の中は目まぐるしいスピードで変化しています。
「自分が子ども時代に受けたような教育では足りない気がする。でも新しい時代を生きる子どもたちに必要な〇〇力とは何だろう」ーーみんな悩んでいます。
私も、そうしたモヤモヤを抱えている親の一人です。
常に何かに追われるように一生懸命頑張っているけれど、自分の子育ての手法は本当に「間違ってはいない」のだろうか。そう悩むことがしばしばありました。
専門家などに取材するときには、現在進行形の親の代弁者として、「では、今何をしたらいいんですか? すぐに家庭で取り組めることはありますか」という問いを発してばかりいたように思います。
私は、教育や学びについて探究している途中で、井上真祈子さんと出会いました。
日経DUALというメディアで井上さんを取材したことがきっかけです。新しい教育を創っている人たちを取材するシリーズで話を伺いました。井上さんは、コロナ禍よりさらに前の2016年からオンラインで子ども向けのリベラルアーツの学びの場、Co-musubi(コムスビ)を提供していました。
最も印象に残ったのは「『お金を出す人=親』である以上、習い事などの教育産業は親のニーズに沿うものになってしまう」という点でした。それは、教育産業に対して自分が抱いていたモヤモヤを解き明かす言葉でした。
井上さんと私は、「一緒に本を作りたい」と意気投合しました。
2人で一致したのは、日本から「もったいない子育て」を減らしたい、という点です。
井上さんは、自身で編み出した「子育て世帯が直面しがちな『負のサイクル』」の図を見せてくれました。それはまさに、自分自身が毎日感じている疲弊する生活のサイクルを表したものでした。
「仕組み」を変えることができれば、「もったいない子育て」のループから抜け出すことができるのではないかーーそんな小さな希望が見えました。
以降、井上さんが主宰する、子ども時代からのリベラル・アーツ「Co-musubi」に親子で参加したり、大人のためのラーニングコミュニティ「タキビバ」で対話したり。
ときを同じくして、私は夫の仕事の都合で米国に住むことになり、わが子が米国の現地校に通い始めるという新たな挑戦もありました。日米の教育のどちらがいい、ということではなく、外に出たことで、これまでとは異なる視点で教育や学びを見ることができています。
子育ての手法には正解はありません。子どもの個性、関わる大人の個性、関係性、その場の状況、それまでの道のりなどによって、適した方法は違うはずです。どの親にも、どの子どもにも当てはまる最適解はありません。
しかし、だからといって、孤独に子育てするのは「もったいない」と感じています。
疲弊するだけで幸せを感じられない子育ては本当にしんどいものです。「孤育て」ではますますつらくなるばかりです。
「子育ては修行ですね」と井上さんは言います。
でも、「自分を成長させる機会にもできる」とも付け加えます。そのためには「まず親が変わることが大事」とも。キーワードの一つは「対話」です。
何かを言葉で表現することは、難しいことでもあります。
例えば、「りんご」という言葉を読んで、どれくらいの大きさの果物を想像するのか。米国では、日本のそれより小さめのものを目にすることが多いため、日本に住む人と米国に住む人では、思い浮かべる果物の大きさは違うかもしれません。
でも、「もしかしたら違うかもしれない」という可能性を心に少しでも持って対話をすれば、いずれその違いは分かるでしょう。
では、「教育」という言葉から、みなさんはどんなイメージを思い浮かべますか。
受け取る人によって想起するイメージは異なるでしょう。もしこの連載で何か心にひっかかる言葉がでてきたら、なぜそれがひっかかったのか、しばしその理由に思いをめぐらせてみてください。新しい扉が開くための小さなきっかけになるかもしれません。
この連載では、私・小林浩子が、井上さんと一緒に「もったいない子育て」をやめる旅に出ている一部始終を、Co-musubiのnoteの場を借りてお届けします。「出ている」と現在形なのは、まだ子育ても探究も途中だからです。そして、問いには終わりはないのだろうとも確信しています。
現段階の私は、「教育」とは、今生きている人間が次の世代の人間に何かを伝えること、だと大きな意味でとらえるようになりました。だからこそ、今生きているすべての人に関わりがあるとも思っています。
さて、「お金を出す人が親である以上、教育産業は親のニーズに沿うものになってしまう」と前述しましたが、同じことは教育系メディアにも当てはまります。読み手が親である以上、親のニーズに沿ってしまうという宿命が仕組みとして存在しています。
では、「親のニーズ」とはどうやって生まれるのでしょうか。
(#1へ続く)
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