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【ノンフィクション】しくじり人生~海外留学、競馬、ギャンブル、ホームレス、ゲイ~(長文超大作)

私の母は、介護の仕事をしています。

介護の仕事って、楽な仕事ではないと思います。
でも、笑いが絶えず、前向きに明るく生活しています。
いわゆる肝っ玉母ちゃんだと思います。

パンの訪問販売をしていた時もありました。
小学生の時、私が具合が悪くなり、保健室に行ったところ発熱していたため、母が呼び出しを受けました。

迎えに来ても、その日の仕事はまだ終わっていません。
なので、訪問販売する車の中で、じっと座って仕事が終わるのを待っていたこともありました。

中学に入るかどうかくらいの頃にシングルマザーになりました。
だけど、形式的な離婚はしていませんでした。半ば蒸発のようにいなくなった父とは連絡が取れず、離婚届を提出することもできなかったようです。

夜中、母の髪の毛を引っ張りながら、怒声を浴びせる父がいなくなり、私としては安堵していました。

夫婦喧嘩を見て育つ子供は、情緒不安定に陥りやすいそうですね。
自分がそうなのかは、自分ではわかりません。

母は、仕事が終わって帰ってきても、我々息子たちの宿題の手伝いをしたり、家事をしたり、働くか、寝るか、そんな生活だったと思います。
PTAの総会も、ほとんど父親が集まる中、我が家は母が赴きます。

疲れているからでしょう、学校の行事や、何かの説明会では、居眠りしている姿しか見たことがありません。

多分あの家は何かの事情があるのだろう。だから、そっとしておこう…

そんな空気感があったと思います。


兄は高校卒業後、自動車免許を取得できる家計状況ではないことを悟り、早々に自衛隊に入隊しました。

母は、息子たちが成人した後も、

「あの時、兄に自動車免許を取らせてあげられなかった。それが心残りだ、、、」

と常々口にしています。

おかげさまで、兄の学費が浮いた分もあり、私は免許取得費用を捻出してもらいました。

その上、留学費用まで出してもらったことを、当たり前かのように思っていましたが、子供が生まれ、自分が子育てするようになって初めて、それは言うほど簡単ではないことが分かりました。


自分が子育てするようになった今だからこそわかるのですが、もし、法律上もシングルマザーになっていれば、様々な手当の恩恵を受けていたと思います。

例えば、あまり丈夫ではなかった私の医療費が軽減し、月1万円の児童手当、住宅手当ももらえていたかもしれません。

母も忙しかったことで、これらの情報を調べることもしなかったから、逃したチャンスではあるかと思います。
無知は罪だなと本当に思います。


後で知ったことですが、私が留学している最中に、父から連絡があり、正式に離婚したそうです。

ちょうど、19、20歳の頃ですので、シングルマザーの手当の効力も無くなっていた時期に、ようやくと言う感じです。


疫病神か何かだったんでしょうか?

肝っ玉母ちゃんの母ではありましたが、父への恨みをこぼすことはよくありました。
子供は、基本的に母親の味方。

母に洗脳され、息子たちの間で父親はすっかり悪者になっていました。

それは、つまり、私にも流れる半分の血をずっと呪われていたということです。

夫婦喧嘩はどちらか一方が悪いわけではないと思うのです。

今、やっとその呪縛は解けました。
例えシングルマザー、ファザーの親御さんで、どんなに苦労をされていても、子供の前では、その子の両親の片側を悪く言わないことをオススメします。

「そんな親の血を引く、自分は生きていていいのか?」
なんて、考える必要もないことを考えさせてしまわないように。

夫婦喧嘩がどちらか一方が悪いとは言えずとも、手を出すことは、確実に悪です!

場所は明かせませんが、雪国で育った私は、真冬に2階の窓から、外に投げ捨てられたことがありました。
記憶している限りでも2回はあります。

怪我はしません。2m以上、雪が積もりますから。

でも、小さな子供では、埋まったまま身動きは取れません。
泣くことしかできないのです。

その都度、祖母が助けにきてくれました。

確かその時は、父親が脱ぎ捨てた靴下を、横になっている父の顔に近づけたのです。
ただの冗談です。

突然キレた父親は、いきなり窓を開け、投げ捨てました。

どんな感情だったか、もう覚えてもいません。
蒸発していなければ、このまま殺されていたか、もしくは私が殺していたのかもしれません。

未だ人を殺めずに、30年以上生きて来れたことに、神様感謝いたします。


そんな家庭だったからこそ、成り上がろうとする意欲は充分ありました。

初めて情報商材と呼ばれるものに手を出したのは、高校生の時です。

金額は、3000円

中身は、たったこれだけ。

あなたが3000円で買ったこの情報を、
同じく3000円で誰かに売り付けるだけ

天下一家の会も驚きのネズミ講だったと思います。

完全にただただ騙されました。

私が高校生の頃ということは、三崎優太も同じ高校生。
彼は18歳の時には、アフィリエイトで月に400万円も稼いでいたというではありませんか。

凡人と天才ではこれくらい違うのです。

その後も、数万円する情報商材を買ってみたりしましたが、少なくとも、自分には合いませんでした。
同じ情報で、とんでもない成功を収めた方もいるとは思います。

ちょうどその頃に流行り出したIPATというシステムを利用して、ネット競馬をやってみたこともあります。

無論、高校生にはギャンブルはできませんので、母の口座で開設し、私が操作するという体裁。
(違法ではないと思われ)

小遣い程度ですので、100円200円賭けたりして遊んでいましたが、それでも何回も何回も負けていれば、負債は膨らみます。

なんとか、少しでも回収する方法はないのか、、、
何か良い手堅いレースはないのか、、、

時は2005年12月

飛び込んできたのが、有馬記念の出馬票。

これしかない!!!

胸が高鳴りました。
常勝無敗、もはや敵なしのディープインパクト、騎手は、武豊。

もうこれ以上に手堅いレースなぞ、存在しない!
そう確信しました。

大きく儲けなくても良い。
まずは、少しでも取り返し、自信をつけ、そこから快進撃を図るんだ!!!

そう思った当時の私は、ディープインパクト単勝に一万円!
確か複勝ではほとんど1倍にしかならなかったと記憶しています。

結果は、ご存知の方も多いとは思います。

そのレースが、ディープインパクト唯一の負け試合なのです。

そのレース以外であれば、単勝に賭けていても、負けることはなかったのです。
それくらいディープは強い馬でした。

なのに、よりによって、、、

それから私は武豊が大嫌いになりました。

馬はきっと八百長しないと思います。
だから、武豊が裏で何か取引にでも応じたのではないか、そんな風に思っています。
きっとこの疑いは一生払拭されないでしょう。


あの日、日本中の誰もが、ディープの負けを予想もしなかったと思います。

レース後の映像をテレビでみていましたが、大相撲の座布団投げにも勝るほどのブーイングでした。

高校生にとっての一万円です。

本当に涙が出るほど落ち込みました。


ネットで、同じ人がいないか探したところ、確か50万円単勝にぶちこんだ人がいるようでした。
その人に、少しだけ救われました。ありがとう。どなたか知りませんが、感謝しています。

探しても、今はその時の馬券の画像は出てきません。

社会人にとっての50万円と、高校生の一万円、、、
同じくらいの痛みがあったのではないでしょうか。


私はそれ以来、競馬にはこりました。


ギャンブルといえば、留学中、成人もしたし、カジノに行ってもいいだろうと思い、初めて足を運びました。

韓国人の友達と一緒に。

でも、ポーカーやら、ブラックジャックやら、そんなものは怖くてできませんでした。

仕方なく、スロットをする韓国人の隣の席に座り、持っていた硬貨を数枚入れて、回してみました。

すると、ジャラジャラ派手な音と光が鳴り出し、何か異変が起きました。
どうやら当たっていたようです。

タダで回る回数がカウントダウンされ、0に近づいてはまた当たり、、、
の繰り返しで10分くらいフィーバーしていたと思います。

早く終わらないかな、、、くらいに思っていました。

終了後、韓国人の友達が食い込み気味で、
「いくら当たった!?」
と聞いてきましたが、稼いだどころか、入れた硬貨は全部消えたのです。

「何が起こっているんだ?スタッフを呼ぼうか?」
と言われましたが、諌めました。

スロットでは、ペイラインというそうですが、掛けるラインを金額によって決めるそうです。

名称未設定のデザイン (1)

私は暇つぶしだったので、中央横一列の1ラインにしか賭けていませんでした。
ですので、例え斜めに凄い絵柄が揃ってもカウントされないのです。

よくわからず回していたので、そんなもんでした。

その友人からは、全ライン賭けていれば10万は確実だったな、、、

と言われました。


スロットも、こりごりです。


他には一回、カジノでこんな苦い経験があります。

もう社会人にもなり、自分で稼いだお金。

せっかく日本では経験できないカジノに来ているんだ、以前はできなかった、カードゲームをやろう!と思い立ちました。

ブラックジャックをやる自分はカッコいいんじゃないか!

そんな頭の悪い理由だけで、所持金3万円で乗り込みました。

私:「初めてなんだけど、大丈夫?」
ディーラー:「もちろん!まずお金をチップに替えて、そのチップをここに置いて!」


ディーラーも親切でしたが、隣に座っていたおじさんも親切に、色々アドバイスをくれます。

その通りやってみたら、ものの10分足らずで、所持金はなくなりました。

おじさんが悪いわけではないけども、信じなければ良かった、、、とおじさんのせいにする自分がいました。
でも、今考えると、自分の意思を持たずにギャンブルした自分が悪かったんです。

その日は近くのゲストハウスに泊まったのですが、こんなとこには似つかわしくない60を過ぎたくらいの日本人女性二人がいました。
日本人ウケするような場所ではなかったため、向こうにも珍しがられ、一緒に夕食を取ることになりました。

そこで、「さっきカジノで、3万円負けたんです。」とボソッと言うと

「あら!良かったわね。最初に良い思いをすると、抜けられなくなるから、それだけの被害で済んでラッキーよ。」

と言ってもらえました。
救われたような、ばぁさんに何が分かるんだ、、というような、不思議な感情が入り混じりました。

でも、考えれば考えるほど、天使が遣わした出会いだったような気がします。
名前も覚えていませんし、連絡先も知りません。まだご健在なのかも分かりません。

その時の言葉がなければ、こんなしくじりばかりの私なので、廃人のようにギャンブル中毒になっていたかもしれません。

おかげさまで、パチンコで勝ったことも一度もありませんし、宝くじも、最高で2000円.

ギャンブル運が全くありません。


いえ、ギャンブルだけではなく、金運が良くないのです。


そんな過ごし方が染み付いた私なので、結婚当初、こんなことを妻に言いました。

「なんでそんなにトイレットペーパーが減るの?もっと節約して使ってよ」

妻には衝撃だったようです。トイレットペーパーの使い方までケチをつけられるとは、、、

でも、男のひとり暮らしでは、1袋買えば、三ヶ月は持ちます。
一緒に住むようになってからは、1ヶ月もすればなくなってしまっていました。

高校を卒業してから、留学するまでの六ヶ月間は、10万円で過ごしました。
家賃は掛からなかったのですが、食事はほとんど家で取ることはなかったので、食事、交際費など、家賃以外の全ての出費を合わせても、10万円で収まりました。

なぜ金額がわかるかと言えば、高校生時にバイトで貯めた10万円を、切り詰めて切り詰めて生活したからです。

ほとんどカップ麺かマクドナルド生活。ジュースなどは買わずに水道水を持ち歩いていました。
服も買ったりせず、留学準備と勉強に明け暮れていました。

その時の生活が祟り、20代中頃にはよく体調を崩すようになっていました。

“You are what you eat.”

とは、よく言ったものだと思います。

そんな私は、留学先でも、しくじりばっかり巻き起こしていました。


大学の休暇中に訪れた土地で、宿を払うお金がなくなり、追い出されてしまいました。

そこで、カジノは24時間やっているからという理由で、ソファで寝ていたら、夜中、警備員に叩き起こされ、また追い出されてしまいました。

仕方なく、川のそばで、持っていたタオルを肩にかけ、ぼーっと水面を眺めていました。

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時刻は、2時か3時頃になったと思います。

まだ、眠らない街では飲み歩いている人や語らいでいるカップルも少なくなかったです。

すると、同じく川べりで酒を飲んでいた、若い男二人組が私に近寄ってきてこう言います。
金髪の白人二人組でした。

「君、ホームレスなんだろ?かわいそうにな。これ、やるよ」

と、お金、タバコ、お酒を恵んでくれそうになりました。

よっぽど見窄らしかったんだと思います。

私より何歳か年上だろう二人組でしたが、その親切が心痛かったです。

「オレはホームレスじゃねーよ!」

と言い返しました。それに、私はタバコは吸いません。

二人組は、「マジかよ、、、」とバツが悪そうにしながら、差し出したものを引っ込め、苦笑いしながら去って行きました。


何時間も何時間も、その時のことを思い返しながら、寝られずに川辺に佇んでいました。

後から後から、

(ホームレスじゃないなんて言ったけど、私は今ホームレスと同じだ。お金もない。タバコはいらなかったけど、お酒もお金ももらっておけば良かった、、、)

その時、親切で私に恵みを与えようとしてくれたのに、それを断ってしまいました。


受け取っていれば、青年たちには、良いことをした経験を積んでもらうことができ、私も少しの豊かさを分かち合うことができたのかもしれません。

何が正解だったかはわかりません。
今でも、あの時どうするのが最適解だったんだろう
と考える時があります。

今わかることは、受け取ることは大事なこと。
そして、豊かになる人は、受け取り上手で、貧乏な人ほど受け取り下手なのではないかという仮説です。


お金以外のしくじりとしては、ゲイに間違いられたこともあります。
(ゲイを差別しているわけではありません)


本場のパブを体験したいと思い、飲めもしないビールを飲みに行きました。

運が良いのか悪いのか、その日は “Buy 1 get 2” イベントを行っておりました。

知らずに、確か7ドルくらいのビールを頼むと、巨大なピッチャーに注がれたビールが二杯も運ばれてきました。

一杯しか頼んでないよ?

と伝えると、イベントのことを教えてもらいました。
“Buy 1 get 2” つまり、1杯頼むと、もう1杯ついてくるよ!というイベントでした。

やっとのことで、1杯は飲み干しましたが、2杯目は無理でした。

そこで、親切心で、隣で酒を飲んでいた男の子にあげようとしました。

その子は、4〜5人組の20代男女のグループの一人で、たまたま私の隣にいただけです。

すると、物凄い気持ち悪いものを見るような目で見られました。

イエローモンキーに対する偏見もあったんだと思います。

グループ内の女子にからかわれています。


あー、なるほど。男が男に酒を奢るのは、何か意図があるのか、、、

私は気恥ずかしくなり、早々にパブを立ち去りました。

こんなはずじゃないのに、、、

そんな気持ちでいっぱいでした。


ゲイエピソードとしては、こんなこともありました。

大阪は、西成地区という、日本のスラムと呼ばれているところがあります。

日本に帰国してからなのですが、リゾートバイトで食いつないでいたことは以前の記事で書きました。

LCCにハブとして、関空はとても使い勝手がよく、西成地区は空港にも近く、とても安いので、何度か利用したことがあります。

50円の自販機があったり、片方だけの靴が道端で売られていたり、本当に怪奇な街でした。

そんな街の初夜、安宿を見つけチェックインしました。
確か一泊1600円くらいだったと思います。

夜も遅かったのですが、「外出されますか?」と聞かれます。
食事がまだだったので、出ますと答えると、

「この街は夜は特に危ないので、気をつけてください!」
と何度もくり返られます。

大金を持って歩くのが危険なのかというと、そうではないようで、むしろ宿内でお金がなくなることもあるから、注意しろと言われます。

私のすぐ後にチェックインした方がいるのですが、女性でした。
その方には宿主は何の注意もしません。

私への忠告をその方も一緒に聞いていたわけではありません。

どう考えてもか弱い女性にこそ、忠告すべきです。

でも、違いました。それは、私が少し奥手そうで、ゲイ受けする顔だったからのようです。
日本でも海外でも、確かによくゲイに間違われますし、ゲイには好かれます。

西成という特殊な街では、たまたまその時は、男が男から性的被害を受けることが多発していたみたいです。

運よく、その被害は私は合いませんでした。

余談ですが、夜は、近くのパチンコ屋のようなスーパー玉出で、惣菜を買ってすませました。

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京都に住んでいることもあったのですが、その時は海外旅行の資金を稼ぎたいと思い、割りに良いバイトを探していました。
夜の仕事も考えていました。

よくある夜系の求人誌の中に、とても割りの良い仕事がありました。

日給4万円以上可!バーテンダー募集

さっそく応募し、面接に行きました。
確かまだ22歳くらいだったと思います。

面接してくれたのは、その店を切り盛りする若社長。
開口一番

「君、ノンケ?」

と聞かれました。

私:「ノンケってなんですか?」

社長:「あー、そういう感じね。えっとね、ここはゲイ専門の風俗なの。金持ちは多いから、稼げるとは思うけど、男の人とどこまでデキる?」

頭の中は真っ白、パニック状態です。

私「え、いやー、バーテンダーって書いてありましたけど、、、」

社長「バーテンダーみたいなもんだよ。ゲイじゃない人も働いているけど、やる気ある?」

いえ、ありません!!

社会勉強でした。

だいたいがお尻を使うけど、口だけの人もいるよとか。
出勤前に、みんなシャワ浣(シャワー浣腸)して、う○ちでないようにする
相手のを舐められないなら、ネコとして売り出してもいいし

とか、30分くらいの間で、急に大人になりました。(笑)

流石に、ちゃんと断りました。

でも、社長も悪い人ではなく、良い仕事見つかるといいね!と応援してくれました。

それから10年、良い仕事は、未だ見つかっておりません。


どうしてもお金が欲しかった私は、掛け持ちでバイトをしました。
一つは、老舗の漬物屋さんで、発送処理を行うバイト
もう一つは、京都の先斗町(ぽんとちょう)にあるキャバクラの黒服。

朝9時〜18時まで漬物屋さん。
18時〜2時まで、キャバクラ。
あとは帰って寝て、翌朝出勤という日々。

漬物屋さんから、キャバクラまでは自転車で猛ダッシュ。
3分の道のりだったので、キャバクラには事情を説明し、多少の遅刻を黙認してもらっていました。

そんな生活のおかげで、一ヶ月で30万円貯金することができました。
生活費は、家賃を入れても6万円もかかっていなかったと思います。

でも、一ヶ月したら体調を崩し、寝込みました。39℃超えの熱をだし、悪寒が酷かったです。
京都には友達もいなかったので、誰にも助けてもらうことができませんでした。
昼のバイトは体調不良を理由に休むことができましたが、夜の世界は厳しく、いくら体調不良でも、ペナルティが取られてしまうので、我慢しながら、働きました。

3ヶ月もしないで、この生活は無理だと気づき、漬物屋の任期が終わると同時に、夜の仕事も辞め、貯めたお金で海外放浪に出ました。

この時が、私の人生で最も働いていた時期だと思います。


そして、その後に待っていたのが、実録「都会難民」で書いた話です。

同情を誘っているわけではありません。

ただ、今まで私の身に起こったことを、全て吐き出さないと、次に進めない気がしているのです。

完全にノンフィクションです。創作だと笑われてしまっても、仕方ないと思うくらい、しくじりばかりの人生でした。


以上、7000字を超える長文を最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
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