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フォルケホイスコーレと民主主義と社会の、切っても切れない関係

突然ですが、フォルケホイスコーレをつくりたいです!と説明すると、必ず言われるフレーズがあります。
「人生で一度立ち止まるための学校か、それはとても必要だね。」
そうそう、結構みんなそこまでは賛同してくれる。
「でもその人たちって、社会に戻ってこられるの?」

はじめのうちは「社会に戻ってくる」というフレーズに違和感を感じながら、わかってもらえないこと説明しきれないことに、てやんでいと嘆いていたのですが、悔しくて勉強していくと気づきました。これは発信者の説明や受信者の理解の問題よりも、日本に根深く走る「前提」の問題が大きいなと。

今回は、かならず通らなくてはならない、
私が感じた、デンマークと日本の前提の違い民主主義とは、について。

私たちが6月6日に実施したCompath設立パーティでも、ニールセン北村朋子さん、加藤佑さんのお力をお借りしながら2つのセッションをやりました。

1)「フォルケって日本に必要?」→民主主義と社会とフォルケの関係性
2)「はじめましてCompathです」→私たちの課題意識とこれからの計画

このnoteでは、1)「フォルケって日本に必要?」パートでご一緒した、朋子さんと加藤さんから頂いた言葉と共にお話できたらと思います。

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フォルケと民主主義と社会の切っても切れない関係性

デンマークでフォルケホイスコーレができたのは175年前、絶対王政が終わった時代。国民全員が社会に関わる必要がある、民主主義社会のはじまりの年なんだよね。いままで関わらなかった大人も、民主主義に関われるような学びが必要になって、そのために出来たのがフォルケであって、フォルケが民主主義の成熟に貢献したといっても過言ではないんですよ。
(ニールセン北村朋子さん / Compath設立パーティでの対談より)

175年前デンマークの絶対王政が終わった時代。農民が85%だった時代。
民主主義が始まれども、一部の貴族しか政治参画できていないまま社会が作られていたことに課題意識を感じた、牧師/思想家/政治家/教育者のグルントヴィが「君たちには生きた言葉がある」と農民を勇気づけながら、学び舎を作ろうとしたのがフォルケホイスコーレの興りです。彼は以下のことを大事にしながらフォルケホイスコーレを構想していきました。

①「生きた言葉(det levende ord)」書物の言葉は色褪せはじめている、実際に話す言葉やその唇から出た言葉が人間の存在の本質である
②「人生の啓発(livsoplysning)」人生の啓発は人生そのものによってしか教えることはできない 
③「国民啓発(folkeoplysning)」地球上の全ての民族・種族・国民も世界の歴史が展開するうえで貴重な役割を持っているという確信
④「相互作用」異なった状態がそのまま存在し、異なっていることで互いを豊かにするように働く二つのものの間に存在するバランス
(※1)

時代が変われば175年前とフォルケの役割は少しずつ変わってきましたが、デンマークでは今でもフォルケは存在し、いまでもフォルケと民主主義は切っても切れない関係です。デンマークは原発ゼロ宣言を、チェルノブイリ原発事故が起こる前年に出しているのですが、その中心はフォルケに通った若者たちだったとされています。

成熟した民主主義を実現するために:個人編

「民主主義の成熟かー、じゃあ政治教育したほうがよくない?フォルケもわかるけどちょっと遠いよね?」って思う時点で、私は知識偏重脳・インストール先行型なんですよね。

民主主義って、自分が社会を変えられると信じている総量だと思うんです
要するに、民主主義の成熟度はSelf-confidenceの度合いと深い関係にある。まずはポジティブなフィードバックを小さいころから受けること。自分が自分で大丈夫と思えること。そして自分が行動を変えたら社会が変わるって体験をしていること。
(加藤佑さん / Compath設立パーティでの対談より)

デンマークの「教育」に当たる言葉は"oplysning(オプリュスニング)"と言います。"人の内なる光に照らして、灯りをともす"といったニュアンスです。まずひとりひとりに内なる光があるという前提で、幼稚園からフォルケに至るまで「その人をその人らしく育む」ことに集中して力を入れているように感じます。

国として成熟した民主主義を作るためにはもちろん政治の知識も大事。参画しやすい仕組み作りも大事。でも大前提、正しい知識を習得するよりも、まずは自分の感性で違和感を感じられること、まわりに安心して発信できることを大事にしている。そんなところに痺れました。

成熟した民主主義を実現するために:共生編

「でもその人をその人らしく育むと、我儘のぶつかり合いにならない?」
わかるわかる!笑 苫野一徳さんの『自由の相互承認』の考え方が好きなのですが、似たものをデンマークに感じました。個人の感性とともに共生するためのコツも同時に育んでいるのです。

フォルケのもう一つのキーワードは『最上の妥協点』民主主義をアップデートし続けるためにフラットな社会であること。全員が賛成することって逆に偏っている、多様性があるから全員が最初から賛成することは実はないことが多い。全員が全員の妥協点がみつかること、そのいい塩梅を探し続けている
(ニールセン北村朋子さん / Compath設立パーティでの対談より)

人間はレゴのようにデコボコ。不完全。だから人間がつくる社会は当たり前に不完全だから、皆でアップデートし続ける必要がある
朋子さんが語ってくれた前提のもと、デンマークの人たちの話やフォルケの話を聴くとこれらのフレーズの意味が分かってきます。

話し合いが多い国 / 納得感 / 意味 / プロセスを大事にする

めんどくさいんですよね、多分デンマーク社会。笑 監督の言うことも納得し無かったら聞かなかったり、誰か一人でも違和感を感じていたらずっと話し合いを続けていたり。でも、めんどくささも楽しむデンマーク
そのめんどくささを面倒くさがって避けて過ごす日本社会。どっちがいいんだろうか。

誰かが作ったシステムに我慢しながら回り続ける日本

多分、デンマークやフォルケに触れて感動した部分ってこういうところなんですよね。国として本気でひとりひとりに賭けている。

こんぱすぐるぐる

二人とも曲がりなりに教育や人事やキャリアについての領域に関わっていたぶん、自分の中で内在していた「人の可能性を信じたい。(※ただしある程度は自分で切り拓ける人に限る)」という"自分らしく"に対する欺瞞をつきつけられて、ガーンってなった。

一方で私が見えてるいまの日本はこう。

日本ぐるぐる

システムは不完全なのに、変えられなくて完璧だと思いがち・求めがち。だから一部によって作られた社会システムに違和感を持ちながらも、我慢が美徳、もしくは消費者として過ごすことで起こる不具合が絶対に生じてる。今はよかったり、個人としては耐えられても、30年先くらいにガタが来るんじゃないかな。(実際コロナで吹きこぼれつつあると思う)

これからはよく言われるように、正解がない世の中になってくる。答えが明確な時代だったらいいけど、そういう時代に必要な学校は答えをくれるより、答えがない学校が必要だよね。答えがないからこそ日本流でいいと思う。デンマークで完成されたものをもってきてもあわないので、日本の土壌やシステムに合った形で作っていってほしいな、と思います。
(加藤佑さん / Compath設立パーティでの対談より)

そうなんです。デンマークは尊敬してるけどそっくりそのままコピーしたいわけではなくって、日本もなりの、ぐるぐる(最初の図)のはじめかたってどんな形だろう?とたどり着いた一つの切り口が、私たちはフォルケを日本につくること、だったわけです。

学ぶって結構楽しいよ?

最後に大事なところ。朋子さんが主催したデンマークでの「食のフォルケホイスコーレ」プログラムに参加した加藤さんの感想を紹介させてください。

朋子さんがデンマークのロラン島につくる予定の「食のフォルケホイスコーレ」1週間ツアーを体験したんですよ。
民主主義を料理で学ぶってこういうことか、と腑に落ちた。
まず最終的に完成する料理が写真で渡されない。全員がイメージできない。レシピも英語。参加者には、nomaの料理人や、飲食店を経営してる人、包丁何年間も握ってない人もいる。
でも「答えがない中で完成形を探していく」という立場ではフラット。
答えがないから、ひたすら対話する。
これって何の食材だろう?塩加減はどれくらい?できるできないよりも好きなように味をいれなよ。料理が得意な人、苦手な人、クリエイティブな人、几帳面な人、貢献の仕方はそれぞれ。
料理はその集大成。その成果物をテーブルを囲んで食べる。

正解のない料理を、それぞれの持ち場・持ち味で貢献し、対話しながら形を探ってつくっていく。「料理」を「社会」に変えたら、まさに民主主義。

なにより楽しそうなんです。フォルケで見た光景も、全部楽しそうだった。方位磁石一つで山を探検する探検の授業、人によって心地よい距離感を縄跳びの紐で表現する福祉の授業、不協和音が聞こえる部屋では"hate"をテーマに作曲してた。休みの日は草むらで寝ころんでだらだら雑談ときどき真面目な話。

フォルケ

うん、楽しそうなんですよね。
大人になってしまったからって、クリエイティビティをあきらめないで。

「日本にもフォルケに関心がある人たちが出てきているよね。人生どんどん長くなっている中で、人生の中で2回や3回くらい立ち止まるのもいいのでは、って。あとコロナを経験して、立ち止まって余白を取ることって、意外といいなと思っている人も多いと思う。
なにより、今回のことをはじめ、予期せぬことってこれから絶対に出てくる。社会システムによって人は作られるけど、一方で、人が社会システムをつくっていく。だから常にアップデートする必要がある。既存の学校にもない、定義されてない空間で、偶発的に起こった物事に対して、共に対話して議論して納得解を出しながら共に暮らす場所がフォルケホイスコーレなんです。」
(ニールセン北村朋子さん / Compath設立パーティでの対談より)

私自身設立パーティをつくるプロセスを経て、民主主義とフォルケへの解像度が高まった感じがします。朋子さん、加藤さん、有難うございました!

さて最後の回(勝手に心の中で3部作の前提)では、これからの少し具体的なお話を。


(※1)スティーヴン・ボーリシュ著『生者の国-デンマークに学ぶ全員参加の社会』より

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