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私は私の息である-制作についての雑感①- (片山達貴)

息はとてもリアルなものだと思う。極めて日常的で、それによって自分は確かに生きていることに違いない。僕は映像作家として、息がもつ、絶対的なゆるぎなさに魅力を感じ、今まで息を扱った映像作品を多くつくってきた。

「息」 2017- ©TatsukiKatayama

ところが息は、毎日の生活において意識するほどのものではない。
そうなってくると息は、自分そのものでありながら、自分からはほど遠い存在にも思えてくる。

息は自分のものだろうか。
例えば血。血は、過去から脈々と受け継がれてきたもの、というイメージがある。多くの場合、血で繋がった人達が家族と言われる。
血は自分の中に流れていながら、自分を超えた存在として語られている。そういう視点で、血と息の違いは何だろうか。
あるいは血以外の繋がりとは何か。

「息」パフォーマンス映像 ©TatsukiKatayama

これはまだ漠然としたイメージにすぎないけれど、繋がりとは血だけを言わず、息を継いでいるような状態でもあるのではないだろうかと思う。スーッ、ハーッ、と続く息の音が、過去現在未来と途切れることなく流れているような。そういう、音響的なイメージがふさわしい。

となると、そこに必要不可欠なものは血というよりも身体であり、それは血よりも緩くてゆるぎないものな気がする。


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