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啓蟄 第7候・蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく)

郡山はまだ梅も咲いていなかった。ゆっくり、そして一気に春はやってくるのだろう。

啓蟄と聞くと、いつも宮崎駿の『風の谷のナウシカ』を思い出す。2011/3/11以降強く。毒はばら撒かれてしまったけど、愚を負うて歩くしかない。

「毒」という文字は頭に過剰に飾りをつけた女性を象っているという。頭の飾りはもしかしたら頭でっかちとなってしまった人の姿なのかもしれない。つまり身体の感覚に鈍感で、パンパンのエゴの塊となって視野狭窄となった人の姿なのかもしれない。過剰な自我を捨てて祓えるのは海や山や庭や花、自分以外の生命や環境に身を委ねるとき。

coronaコロナとはcorollaカローラと同根で花冠という意味も持つし、太陽や月の光冠のことでもある。花の冠、果たして死の冠なのか、それとも再生の冠なのか。遍く照らす太陽の恵みを受け、新たな世界が春のように生まれるのか。日月、過ぎ行く時を抱きしめられるのか。

福島の郡山でお庭を作る仕事をいただいて、がら空きの新幹線で通った。庭師さんやお手伝いのおばさんたちと、頭を捻ったり、歩きまわったり、手を動かしたりした。庭がこの集合住宅に住む人々や道ゆく人々にとってさりげなくもたらしてくれるものを想像しながら。

まだ見ぬ時を、いつか見るだろう風景を、そのイメージを超えて行ってくれる自然の力を、それを感受する人の力を。

春になれば、こうしてまた蘇生する彼らに学び、人は擬き、笑い、泣き、いのちをつないできた。

仕上げの日には、草餅といちご大福と豆大福を詰め合わせて、庭師さんたちと「庭見」をした。

国見とか花見のように、見て褒めて祝う。気が還流し、触れていくことは、鳥の囀りや、蝶の風や、小動物や地虫が幹や根をくすぐることが、植物の発芽や開花を促すのときっと同じだ。

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