「拗らせて」いる私たち

 最近、気になっている言葉がある。それが、タイトルにもある「拗らせる」という言葉だ。おおよそ、誰かを肯定する際に使う言葉ではない(それ自体は悪いことではないが)。
 どうして数ある言葉の中でもこのワードに注目しているのか。一つは単純に、近頃目にすることが多くなってきたからである。「耳にする」ことが多くなってきた訳ではないのがポイントだ。その言葉は、SNS上で台頭してきたような気がしている。そして日常会話で使われることはあまりない。
 私はこの「拗らせる」、「拗らせている」という言葉にとてつもない暴力性を感じるのだ。この言葉がSNS上に現れるとき、その大半は「拗らせている」誰かを揶揄するような内容だ。そしてその言葉を使う人は、大抵自分を、「拗らせている」誰かの遥か上にいるような物言いをしている。
 このように、「拗らせる」という言葉が(特にSNS上で)使われる際、そこには「拗らせて」いる他者と、正位置にいる私たち、という構造になりがちなのだ。私はこの点に、非常な違和感を感じている。
 そもそも、この社会に「正位置」など存在するのだろうか。それ自体、SNSや過度な競争社会が見せている幻なのではないだろうか。そしてそんな存在すら怪しい地点から外れてしまった人たちは、それまでの過程で何かを欠損してしまったのだろうか。この社会に生きる人にはある一定の年齢に達するまで一律為すべきことがあって、それを達成できなかった者は嘲笑の的になってしかるべきなのだろうか。
 常に誰かと比較され、自分をシビアに評価しなければ生きることが難しい。それは確かに、今の社会における現実の一側面だと思う。しかし、画一された評価軸からは外れた人も、ずっとその人の現実を生き続けた人なのだと思う。混沌とした世界で生きる指針を見つけるためには、正解があった方がいいのかもしれない。でも、違っていてもいいのだと考えていたい。そうやって、「同じである」ことの呪いから抜け出せる人が増えれば、怖いことはもっと減っていくのだと思う。
 言葉自体に罪はない。言葉は日々変わっていく。「拗らせる」。いつかこの言葉が、他者を狩るための都合のいい免罪符にならないように、私はいつも考えていたい。

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