【第254回】『トウキョウソナタ』(黒沢清/2008)

 黒沢清がこれまであまり積極的に描いてこなかったものとして、ラブストーリー、メロドラマ、ファミリー・ドラマが挙げられる。実はそれ以上に描くべきジャンルとしてアクションが挙げられるものの、これまで黒沢は散々追いかけっこをし、銃撃戦をし、自分の思いを多少なりとも満たしてきた。それと比較すると、黒沢のラブシーンは随分ひ弱で恐る恐るに見えるし、ファミリー・ドラマに関してもどっぷり関与することを避けてきた節がある。

最初に家族関係に立ち向かったのは、98年の『ニンゲン合格』であろう。10年間の昏睡状態から奇跡的に目覚めた20代の少年は、病院に家族が見舞いに来るでも迎えに来るでもなく、父親の大学時代の友人だった男が家族の代わりをする。10年間の間に家族はてんでバラバラに生き、もはや一つ屋根の下に集うこともない。黒沢はごくありきたりな現代の家族の物語を随分冷ややかに、突き放して表現していた。ファミリー・ドラマの核となる家族の再生や崩壊のベクトルは最初から失われ、そこにあるのは息子のいつかこの場所に家族全員が揃う日を夢見るささやかな希望しかなくなっている。

次に親子関係に向かったのは『アカルイミライ』であろう。この場合の親子関係とは、父子関係である。5年間会っていない音信不通の息子から久しぶりに届いた知らせは、殺人を犯し刑務所にいるということのみで、弁護士は最悪の状況も覚悟に入れておいてくださいと父親をたしなめる。最初は状況に狼狽え、もう一人の息子(弟)に助けを求めるも、息子は冷たく、逆に何をやっているんだと叱責される。やっとの思いで面会室に向かうも、殺人を犯した息子に無理しないでいいと言われ、ふと投げかけた問いに死刑の日を考えていると言われ言葉が出て来ない。ここでも家族は明らかに崩壊し、それに対処する術もない。けれど彼を慕っていた二村により、父親は新しい家族の形を模索する。

今作においては、耐え忍ぶ母親像を小泉今日子が熱演している。冒頭嵐の昼間、大風にカーテンが揺れ、雨が部屋に吹き込んできている。母親は急いで窓を閉め、水浸しになった床を拭くが、どういうわけかもう一度窓を開け外を見る。彼女がいったい何を見ているのか?その答えとなるショットは遂には出て来ない。しかしながら彼女が4人家族の中で率先して出て来たことを忘れてはならない。次に父親の会社での様子がフレームに映される。彼は部下を軽く叱責するも、上司の部屋へと足早に急ぐ。そこでは総務課の移転計画が矢継ぎ早に繰り広げられ、父親の仕事は残酷にも下請けの連中に奪われたことを上司が告げる。開巻早々、路頭に迷った父親は、家族に失業した事実を言い出せないでいる。

次男(井之脇海)は次男で、授業中にマンガ雑誌を廻し読みしたことを先生に咎められる。彼は冤罪を主張するが、先生は頑なに後ろに立っていろと彼に促す。そのことにヒート・アップした少年は、先生が列車の中でエロマンガを読んでいたことを咎めるが、逆に先生の逆鱗に触れ、彼の主張は一切通らない。自暴自棄になった彼の楽しみは、帰りの道中にあるピアノ教室のレッスンの様子を眺めることだった。長男(小柳友)はアルバイトに明け暮れ、毎日朝帰りで、昼夜逆転の生活で父親との接点はほぼない。ティッシュ配りのアルバイトで明るい未来の見えない青年は、いつか「ここではないどこか」への旅立ちを夢見ている。

4人家族はそれぞれに言い出せない悩みや事情を抱えている。それぞれのステージにおいて、言いようもない人生の不幸を抱えながら、それでも家族の風景を頑なに守ろうとする父親がどこか滑稽で、浅はかに映るのは仕方のない話だろう。40代そこそこの彼は、自分の威厳を守ることに必死で、目の前にあるリストラという事実をうまく口に出せない。そうこうしている間にも、息子たちは将来のビジョンを考え、自分たちの人生を歩もうとしている。長男はアメリカの軍隊に入隊したいと言い、次男はピアノが習いたいと言う。どちらも身勝手な要望だが、父親である香川照之は息子たちの夢を尊重してあげねばならないはずである。だが父親は自分の威厳のために、息子たちに対して簡単にはYESと言えない。そのことが必要以上の軋轢を生み、物語の求心力となる。アメリカ行きを決めた長男をバス停まで見送るのは母親である小泉今日子の役割であり、そこに父親の姿はない。

今作で1、2を争う印象深い場面として、あのドラマチックな次男の階段落ちの場面が挙げられるだろう。まるでブレッソンの『ラルジャン』への無邪気なオマージュのように、少年と中年が二階で攻防を続けるうちに、思いもかけず次男は階段を転げ落ちる。ここに来て家族関係は明らかに崩壊し、音を立てて崩れ始める。黒沢にとって家族関係とはそのくらい薄い成り立ちであるが、『ニンゲン合格』や『アカルイミライ』の時とは違い、家族間に激しい言い合いの場面を作ることで、より家族の危うさを緊密に表現することに成功している。この家族は食事の際、父親の号令がなければ料理には一切手をつけないほどの厳格な家族であるものの、長男も次男も自分の思いを臆することなく主張するのである。その堂々とした態度が、リストラされた父親の逆鱗に触れ、癇癪を起こす要因ともなる。ゆっくりではあるが、用意周到に家族が崩壊していく様子は、21世紀を挟み、黒沢映画が世界の不均衡や崩壊を描き始めたことと近い。映画の前半部分では母親の存在が堰き止め役を担っていたものの、後半、そうとも言っていられない危機が突如母親にも降りかかる。

ここからの性急さは、まさに黒沢お得意の転調と呼ぶに相応しい飄々とした魅力を讃えている。既に父親の権威に正論で反応し、精神的ダメージを与えた妻の受け身の行動を、能動的判断へと変えるのは皮肉にも家に押し入った犯人が媒介となる。黒沢映画においては禁じ手とも言える回想シーンの利用が、彼女の覚悟を象徴し、母親はやがて逃れられない運命の中で、岸へと辿り着く。ここでは役所広司扮する泥棒と母親が行為に及んだのかかどうかはまったく問題ではない。常に受け身だった母親の態度が、この一夜の旅を境として明らかに変化していることを忘れてはならない。それは早朝の小泉今日子の美しいワンカットが全てを物語る。長男や次男や、ましてや父親でもなく、母親の自立が今作では最も目に留まるのである。

クライマックスの黒沢の、あえて家族の再生をわかりやすい形で提示するのではない、中学受験の音楽試験を映したラスト・シーンの筆舌に尽くしがたい美しさは何と形容したらいいのだろうか?感極まる父親の脇で、小泉今日子だけはその事態をあっさりと許容する。今作ではとにかく熱演が光った井之脇海の生演奏が我々の心を捉えて離さない。実際には腕の先だけはボディダブルだが、そんなことは大した問題ではない。ゼロ年代の黒沢は、明らかに苦手だったジャンルにも果敢に挑戦し、成功も失敗も受け入れながら不気味に作家主義の最前線を張る。この後、リーマン・ショックの影響で数年間の沈黙を余儀なくされるものの、今作で勝ち得た俳優陣との共闘が、黒沢の更なる歩みを推し進めることになる。

#黒沢清 #小泉今日子 #香川照之 #役所広司 #トウキョウソナタ

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