【第522回】『日本で一番悪い奴ら』(白石和彌 /2016)

 1975年、締め切ったうだるような暑さの東洋大の柔道場。スパルタ教育で知られる師範(高坂剛)に呼ばれ、諸星要一(綾野剛)は神妙な面持ちで先生の前に正座する。この男、明らかに弱そうな風貌ながら、耳介血腫で餃子のような形に変形した耳が柔道歴の長さを物語る。北海道警は来年の全国柔道大会で優勝するため、門別町出身者である諸星に白羽の矢を立てる。こうして届けられた師範からの吉報に対し、微動だにしない諸星の表情。「何だ、もっと喜べ、公務員だぞ公務員」。そう言われて師範の前で無理矢理笑顔を作る主人公の姿。早くもこの時点から、流されやすい男・諸星の造形は決定付けられる。翌1976年、晴れて北海道警に入る。壇上に掲げられた日の丸の国旗。次々に呼ばれる名前に呼応し、その場に即座に立つ新人警官たち。諸星の名前が呼ばれ、起立する初々しい姿。最初に任されたのは栗林(青木崇高)の相棒の仕事である。チンピラを路上の裏道に追い込んだ諸星の運転は甘く、シートベルトをしようとして栗林に怒鳴りつけられる。モタモタしている間に、村井定夫(ピエール瀧)の車にあっさりと先を越され、手柄を奪われ怒り心頭の栗林は、再度、諸星を怒鳴りつける。署内でのお茶汲み、地道な捜査資料の書き写しの日々。男はデスクワークを甘んじて受けるが、一向に成果の出ない日々が延々と続いていく。そんなある日、村井が諸星に声をかける。「よぉ、青年」。雲の上の大先輩に突然声をかけられた男は衝撃のあまり、その場に起立し、村井の表情を見つめる。「飯行くか」の掛け声に二つ返事で了解した諸星は、キャバクラで聞いた村井の話にようやく「刑事のイロハ」を教えられる。

諸星にとって、社会に出て最初に出会ったメンターは師範でも栗林でもなく、この村井定夫という薄汚れた敏腕刑事である。キャバクラで一度席に着けば、横に女たちが4人5人と群がり、村井の言葉を傾聴する。その村井と女の園のような構図を、酒が呑めない諸星は一歩離れたところから見つめる。「おい青年、お前はどうして刑事になった?」「公共の安全を守り、市民を犯罪から保護するためです」。まるで面接試験のような至極真っ当な受け答えをする諸星に対し、村井は刑事は点数が全て。点数を稼ぐためには自ら進んで裏社会に飛び込み、スパイを作れと悪魔の助言をするのである。キャバ嬢の胸に村井が指で書いたSの文字。大学出の若者はまんまとメンターである村井の口車に乗り、翌日から裏社会への独自の営業活動を開始する。この諸星と村井の師弟関係の危うさは、そのまんま北野武氏の『キッズ・リターン』におけるシンジ(安藤政信)とハヤシ(モロ師岡)の関係性にも置き換えることが出来る。今作における主人公の諸星も、村井の甘言だけを信じるのではなく、生真面目な刑事の助言も聞けば恐らくこんなことにはならなかったかもしれないが、諸星は村井の言葉を100%真に受けて、「ある越えてはならない一線」を躊躇なく踏み越えてしまう。かくして点数稼ぎの違法な家宅捜査で表彰された諸星は、公共の安全や市民の犯罪の保護よりも、点数やノルマに固執するだけの体面にこだわる刑事へと堕落していく。村井の満を持しての王座陥落により、いよいよススキノの街で怖いものなしになった諸星が、悪の権化へと変化する様子が凄まじい。街へ繰り出せば、数m感覚で親しげに声をかけてくる夜の街の人々や裏社会の住人たち。北海道警に根を張らず、あえて裏社会に基盤を作ろうと画策する男は暴力団幹部の黒岩勝典(中村獅童)を巻き込み、運び屋の山辺太郎(YOUNG DAIS)、盗難車バイヤーのアクラム・ラシード(植野行雄)らと着実にチームの基盤を固めていく。

云うまでもなく今作は2002年7月、北海道警察の生活安全特別捜査隊班長である稲葉圭昭警部が覚せい剤取締法違反容疑と銃砲刀剣類所持等取締法違反容疑で逮捕、有罪判決を受けた「稲葉事件」に端を発した実録ルポルタージュである。当時北海道警察で、現職警官が薬物使用で逮捕されるのは初めてだった。この事件が極めて異質だったのは、北海道警による組織ぐるみの隠蔽体質であろう。元々、銃器の摘発を主な案件としてきた道警本部保安課銃器対策室のエースだった諸星は、決して評価の高くなかった部署の価値を自ら高めることを強いられた。90年代初頭に降ってわいた山口組系の八王子抗争事件、その後の国松長官狙撃事件が決定的となり、全国の県警が署をあげて銃の規制に乗り出したのだ。その過激なノルマが北海道警および、猿渡隆司(田中隆三)や当時、道警釧路方面本部の生活安全課長である警視-K岸谷利雄(みのすけ)(56)らを過激なノルマで縛り、エスカレートさせていったのは云うまでもない。諸星は言うに及ばず、山辺太郎の結婚式に参列した猿渡や岸谷の平然とした癒着は、まるで深作欣二の『県警対組織暴力』『やくざの墓 くちなしの花』のような生々しい実録路線へ復古する勢いに溢れている。当初から流されやすい人物として造形され、過激なノルマにより、徐々に狂気の道へとエスカレートしていく諸星要一の役柄を、綾野剛のライトな演技がのらりくらりと演じ切る。今作は狂乱と熱狂の渦中に身を投じた男たちの四半世紀に及ぶ戦いの記録ながら、清々しいまでに経年変化や時代考証を踏襲しない。要は細かい時代考証よりも、若い役者たちの面構えの変化を楽しむ映画なのである。そう考えると、中盤以降のオーバードーズ場面の綾野剛の熱演や、夕張警察署内での逃亡の場面が半ば奇跡の瞬間として立ち現れるのだ。

#白石和彌 #綾野剛 #ピエール瀧 #中村獅童 #YOUNGDAIS #植野行雄 #日本で一番悪い奴ら

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?