【第252回】『LOFT ロフト』(黒沢清/2006)

 黒沢は2000年代に入り、『アカルイミライ』と『ドッペルゲンガー』の2本をほぼ同時に撮り終えた後、長編劇映画からおよそ2年半遠ざかる。その間に幾つかの野心溢れる短編とテレビ作品を残す。まずは『タイムスリップ』。翌年の2003年、刑事(デカ)まつりの一編として7分の短編を撮る。そして『アカルイミライ』の115分を新たに92分に編集し直したインターナショナル・ヴァージョンを公開。NHKの朗読紀行 にっぽんの名作の中の1篇『宮沢賢治 風の又三郎』を撮る。この現場では小泉今日子との出会いがあり、作曲家の大友良英とも出会っている。翌2004年、雑誌「Invitation」の確か1周年記念の企画として、浅野忠信主演で23分の短編を発表。当時「Invitation」の付録DVDに収録されていた。宝塚酒造に協賛を仰ぎ、お酒を呑む場面をPRとして入れた実験的な作品である。「Invitation」はその後残念ながら休刊している。

世界3大映画祭に招待され、カンヌでは国際批評家連盟賞を受賞したことのある黒沢も、2000年代に入り急速に変化していく映画業界の流れの中で苦戦していた。映画は果たして娯楽なのか?それとも芸術なのか?この議論は古今東西、あらゆるところで繰りかえされてきた問題だが、我々のように芸術性を尊ぶ連中がいる一方で、大ヒットする作品こそが映画なのだという流れもまた存在するのは紛れもない事実である。多くの投資家が参入し、映画はひょっとすると儲かるかもしれないということで出資者が続々集まってくる。資本主義としてはごく当たり前の流れの前で、なかなか長編劇映画が撮れない日々が続いた。

そんな黒沢に助け舟を出したのが、韓国のミロビジョンという会社だった。韓国映画よりもアート性の強い映画の製作・配給を手掛け、時には映画祭向けの作品を手掛けるこの会社から、ホラー映画としてヒットするものをという無言の圧力を感じつつ製作された。『LOFT』というタイトルは、もともとの脚本が倉庫のような屋根裏部屋のある家に越してきた主人公が、そこで死体を発見する物語から仮で名付けられていたのだが、実際には東京にはそんな場所がなかった。そこで黒沢はスランプの小説家が郊外の自然に囲まれた古い洋館に引っ越し、そこで1000年の眠りから醒めたミイラに遭遇するという物語に設定を大幅に変更する。そうして新しく出来た物語は、まるで『奴らは今夜もやって来た』や『スウィートホーム』の頃に立ち返ったかのような面白さに満ちている。

スランプに陥った芥川賞作家の春名礼子(中谷美紀)は、編集者・木島(西島秀俊)の勧めで、郊外の一軒家に引っ越すことになる。緑に囲まれた静かな環境に身をおいた礼子だったが、ある夜、一人の男がシートに包んだ人間のような物体を、向かいの建物に運び込む様子を目撃する。やがて礼子は、男は吉岡誠(豊川悦司)という大学教授で、1000年前のミイラを沼から引き上げたことを知る。

冒頭の床にもんどり打って倒れ、床を這いずり回る中谷美紀のショットがいつになく怖い。女はスランプというよりも、何か悪いものに取り憑かれているようにしか見えない。外出先でもつわりのような状態になり、その場に突っ伏して咳き込み続ける。彼女はストレスの多い都会での生活を捨て、郊外の森の中に居を求めるのである。そこは緑の森に囲まれた自然豊かな場所で、隣の家には誰も住んでいないらしい。彼女はこの自然の中で一人だけの生活を満喫するかに見えたが、夜、窓から目をやると停車した車の中から、男が人間の死体のようなものを運び出そうとしている。男の表情は見えないが、明らかに大柄で怪しい雰囲気を醸し出している。これは黒沢には珍しく、見ることと見られることの物語である。

その光景を見た瞬間から、主人公はこの男の行動を探り始める。一体何を運び込んだのか?何をするつもりなのか?磨りガラスの向こうに主人公のシルエットが一面に広がり、中から男もゆっくりとその磨りガラスに近づいていく。顔が見たいのに見えない、実体はあるのにその姿をなかなか拝むことが出来ないのは、自作『地獄の警備員』での表現の再来であろう。かつて『スウィートホーム』のエントリに、当初予定していた草稿には、古い洋館で幽霊を見た母親が、恐怖のあまり自殺してしまい、元いた幽霊と母親の幽霊の二者が幽霊として現れると書いた。結局、その草稿は資金が集まらずボツになったが、今作の安達祐実扮する幽霊とミイラの二重構造はまるでその頃の映画の断片を焼き直したようにも思えてくる。今作では『奴らは今夜もやって来た』に始まり、『スウィートホーム』や『地獄の警備員』に漂っていたクラシック・ホラーの佇まいが全開になっている。

やがて『ニンゲン合格』では感情をあまり表に出さない男を、これに続く『蟲たちの家』では妻に激しい束縛をする嫉妬深い夫を演じた西島秀俊の、爽やかな風貌の裏に隠されたとんでもない事実を目撃することになるのだが、それ以上に不可解なのは、いったい安達祐実は何度死に、何度蘇ってくるのかということである。そもそも安達祐実と1000年前のミイラとの接点や因果関係とはいったい何なのか?肝心なところがどうもはっきりとしない。

今作を無理矢理ジャンル映画の型にはめるとすれば、どこに収めるのが適当だろうか?一番多くの票が集まるのはおそらくホラー映画だろうが、途中の西島秀俊の優しい顔の裏に隠されたとんでもない事実を目撃するところは完全に猟奇ミステリーであり、中谷美紀と豊川悦司の見ることと見られることの関係性はラブ・ストーリーの要素さえ孕んでいる。そういう重層的な構造の揺らぎが物語を支えているのである。

思えばこれまでの黒沢映画において、ゆっくりとした動きというのはあまり見られなかった。森の中での彼らの振る舞いは常に全力疾走か、せいぜい早歩きであり、歩くことなどほとんどなかった。だが今作においてはヒロインである中谷美紀のゆっくりとした美しい歩き姿が何度も見える。豊川悦司も階段を駆け上がることなど一度もなく、そのゆっくりとした歩みは鈍重にさえ見える。物語の重層的な構造の中で、登場人物たちのこのゆったりとした動きは決してアクセントにはならず、どちらかと言えば映像に深く溶け込んでいくようにさえ見える。

クライマックス前に、彼らが乗り物に乗らないのも意外に思う。彼らは最初から橋の突端に立ち、まるで神の裁きを受けるような深刻さに包まれている。やがてゆっくりと引き上げられた木箱の中に、男が取り憑かれたイメージはどこにも入っていない。だからこそラスト・シーンの恐ろしい早さには心底肝を冷やした。それと共に、あぁやっぱりホラー映画だったのねという思いが浮かぶのである。

今作は35mmフィルムで撮られているが、原色の美しさの中でも特に青々とした緑の発色が際立っている。黒沢は今作で初めてカメラマンに芦澤明子を起用している。それによりロング・ショットの魅力や長回しの魔力は幾分後退したものの、明らかに色調が90年代の黒沢とはまったく違うベクトルに足を踏み出したように見える。おそらく黒沢は盟友・万田邦敏の『Unloved』の映像を観て、カメラマンを芦澤明子に決めたのだと思うが、これから先、『Seventh Code』や『ビューティフル・ニュー・ベイエリア・プロジェクト』をのぞく全ての作品で芦澤明子とコンビを組むことになる。それは新作『岸辺の旅』でも同様である。

#黒沢清 #中谷美紀 #豊川悦司 #西島秀俊 #安達祐実 #芦澤明子

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?