わたしの家族 その3
父はとても仕事熱心な人だった。
野菜の卸売りの仕事をしていたため、生活は昼夜逆転。夜に静岡から築地までトラックで移動し、夕方に帰宅、また夜に仕事に出かけるという生活をしていた。
毎日3,4時間の睡眠で、それでも一度も仕事を休んだところを見たことがない。
大人になってから父の凄さが分かるようになった。
しかし子どもの私にとっては、ずっと家にいなかった父は未知の存在で恐怖の対象だった。
そんな父との関係が変化するのに時間はかからなかった。
母が家を出てからすぐに、一度も会ったことない親族が家政婦さんとして家に住むようになった。
兄と姉はある程度自立をしており、父のことも家政婦さんのことも良く思っていなかったからか、家に帰ってくることが少なくなっていた。
家政婦さんは父方の親族であったため、母の悪口をよく言っていた。
私は、住み慣れたはずの家で完全に孤立するようになった。
それでも、父も家政婦さんも、まだ幼かった私に対して彼らなりの愛情を注いでくれていたことはちゃんと分かっていた。
休みの日には、私の友達も一緒に、よく水族館に連れて行ってくれた。誕生日にはずっとほしかった電子ピアノを買ってくれた。
よく作ってくれていたポトフの味の薄さも、授業参観にどのお父さんよりもかっこよくスーツを着こなす父の姿もよく覚えている。
しかし、「父親になりきれない自分」に対する苛立ちが顔を出すことも多く、そのたびに父の弱さが私の心を叩いた。
父は自分が知らない私の姿があることを気に入らなかった。
中学1年の時、学校の体育大会に父がこっそり見に来たことがあったらしい。
父は普段家では見せない私のはしゃいでいる姿を見て、心底驚き、
「みさとは本当はあんなに笑う子なのか」と電話をしてきた、という話を後になって母から聞いた。
それから学校行事があった日の夜は毎回、父は何かと理由をつけて私を怒鳴ったり、重たい話をするようになった。自分の知らないところで楽しく過ごす私が悔しかったのだろう。
中学3年の体育大会の日もそうだった。
学校が終わり、友達とファミレスでご飯を食べていた私の携帯に父からの着信が入った。仕方なく出ると、父は「パパ、大きい病気になっちゃった」と話を始めた。
どうせ、またいつものように気を引くために大げさに言っているのだろうと思い、なんとなく受け流して、駆け足で友達のもとへ戻った。
その4か月後、父は亡くなった。
私に電話をしてきた日の時点で、父はすぐに手術をしなくてはいけない段階にいた。しかし、仕事ができなくなるからと父はギリギリまで入院を拒み、気が付いたらお粥しか食べられないほど、弱り切っていた。
父から病気を告げられた3カ月後、父の身体は限界に達し、手術の準備に入った。入院をしてからも、病室で仕事をする変わらない父の姿があった。
しかし、一つだけ変わっていたのは、こわかった父の面影がなくなっていたことだった。
その代わり、父は私に様々なお願いをしてくるようになった。
「おばあちゃんに携帯をもつように説得してほしい」
「パパの洗濯物は家に持ち帰って、みさとが洗濯してもってきてほしい」
「上智大学の推薦を取って大学に入ってほしい」
「ママとあのようにして別れてしまったことを許してほしい」
今思えば、父は死ぬ準備をしていたのだと思う。
それから父は手術をしたが、術後の療養中、感染症に罹り亡くなった。
私たち兄妹は誰一人、父と最後の言葉を交わすことができなかった。
text/みさと
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