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約束

眠れない夜って、どうすればいいんだっけ。
祖母から教えてもらった手のひらのつぼを押しても眠気は現れず、羊も55匹目を数えた所で飽きてしまった。

チクタクと時計の音がやけに大きく聞こえる。明日も学校があるのに、どうにも寝付けない日だった。

私は眠ろうとすることをあきらめて、二段ベッドの上段から降りた。下段には弟が眠っている。すやすやと熟睡している姿が少しだけ腹立たしいが、これといって彼を起こす意味もないので、音を立てないように寝室のドアを開く。

すると消したはずの階段の電気がついていて、リビングの方が何やら騒がしい。そーっと、階段下を覗いた。久しぶりに見た、両親の夫婦喧嘩だった。

「ゆうくん起きてる? こっちきて」
私はひそひそ声で弟を起こした。なんとなく、そうした方がいい気がした。寝ぼけ眼の弟を呼び寄せて、螺旋階段の隙間から顔を出してその喧嘩を眺めた。もう深夜1時過ぎ。

いい加減にしてよ、子供の学費はどうするの?うるさいな、ちょっとは渡してるだろ。そんな言い合いが続く。私も弟も、それをじっと聴いている。

昔から我が家の家計が芳しくないことには気づいていた。私たちの前ではお金の話をしないようにしてくれているけれど、「お金がない」ということはそう易々と隠し切れるものではない。

東京で子供二人を育てるにはそれなりのお金がかかる。それなのに父は毎日アルコールを飲み歩いて、家に入れるお金は微々たるものだった。母は父が真面目に働くように願ったが、プライドの高い父は母からの願いを聞き入れることはなかった。そして、ことあるごとに舌打ちをする人だった。

その日も父は母の追求を無視したり、適当にあしらったり、舌打ちをしたり。まるで真面目に話し合う気はないようだった。

私は舌打ちをする人が本当に苦手だ。自分の苛立ちをアピールして威圧しているようで、脅しみたいだから好きじゃない。

母と喧嘩になった時、私たちが言うことを聞かない時、応援しているサッカーチームが負けた時、気に入らないことがあるとすぐ父親からチッという音が聞こえてくるのがこの上なく嫌だった。

小さいことだけど、小さいことではなかった。いつしか舌打ちをすることは、私たち姉弟にとって父親のようなダメな人間の象徴になっていた。あんな大人にはなりたくない。あんな大人になってはいけない。

だから、舌打ちは絶対しちゃだめ。
「約束だよ」
「うん、約束。」
そう言って、あの螺旋階段の踊り場で、私たちは指切りをした。

あれから8年近くが経った。誰かが舌打ちをするのを聞くたび、ドラマで夫婦が喧嘩するシーンを見るたび、私はこの時のことを思い出す。

当時6歳だった弟は中学2年生になって、絶賛反抗期である。勉強しなさいと言う母に屁理屈を並べ立て、ほぼ毎日ぶーぶー文句を言って反抗している。でも舌打ちだけはしない。私ももちろんしない。あの日の約束を今更確認することはないけれど、それは暗黙の了解となって、今も活き続けているのだと思いたい。

                  text/ハナ

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