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【悪魔の代弁者】無意識に陥る「同質性の罠」からの脱却

ビジネス界の巨象、誕生

「巨象」と例えられる企業があります。

100年以上前に誕生し、その卓越した技術革新と、驚異的なビジネスの成長を実現させたことからこの異名が与えられました。

「IBM」です。

IBMは1920年代から名を馳せるようになります。学校で使用される放送装置(PAシステム)の発売や、社会保障庁での社会保障番号のネットワーク構築において、同社のパンチカードマシンが採用されたことが評価されました。1928年には直接引き算ができる初の電卓を開発し、技術革新の先駆者としての地位を確立します。

1943年には、最初の完全な電子計算機「真空管式乗算器」を開発し、1944年にはハーバード大学と共同で開発した「マークI」を完成させます。マークIは、現代のコンピュータの原型とされていますが、当時アメリカ海軍がノルマンディー上陸作戦やフィリピン海戦において、艦船の砲弾の軌道計算に使用したことで、同社の信頼度を大きく高めます。

1950年代に入ると、IBMの創業者トーマス・ワトソンの息子であるトーマス・ワトソンJr.がIBMの経営を引き継ぎます。彼の下、1960年代にかけて上記の進化版である真空管コンピュータやハードディスクを開発、これらは後の全てのコンピュータの基礎となっています。

1970年代まで、コンピュータは「メインフレーム」と呼ばれる数億円もする巨大な機械でした。これを使用できたのは、大企業、政府機関、大学などに限られていました。このように市場の要所を押さえた彼らですから、ここからコンピュータ業界において圧倒的な地位を築いきます。そしてその象徴的な成果が、1964年に発表された「システム360」です。

システム360の開発には、原爆開発プロジェクト「マンハッタン計画」を上回る膨大な資金が投入されました。これは、まさにIBMの社運を賭けた大事業でした。システム360は、「コンピュータ本体と、周辺機器が完全に互換性を持つ」というコンセプトをベースに設計されており、当時の業界にとっては非常に画期的な製品でした。

この成功で、IBMはコンピュータ業界で他社の追随を許さない圧倒的な地位を確立し「世界一のコンピュータメーカー」としての名声を手にします。

1960年代から1970年代にかけて、IBMはビジネスコンピュータ市場で圧倒的なシェアを誇り、世界中のビジネスコンピュータの60%〜70%を製造するにまでになりました。これがIBMに「巨象」の異名を与えることになります。

絶好調の巨象は優雅に踊っていました。

GAFAMの「A」と「M」台頭

メインフレームの成功により、一時は順調に見えたIBMも、その後の凋落は徐々に、そして確実に進行していきました。

時代はIBMのメインフレームからPCへと、着実に変わりはじめていました。

1976年、Appleの共同創設者であるスティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックが個人向けPCであるApple I(1976年)およびApple II(1977年)を発表しました。特にApple IIは個人向けPC市場に非常に大きなインパクトを与え、ここからPC市場が爆発的に成長することになります。

Appleから遅れること5年、1981年にようやくIBMは「IBM PC」を引っ提げてPC市場に参入します。彼らは非常にユニークな手法でシェア拡大を狙いました。それはオープンアーキテクチャ、つまり「設計図の開示」です。

「気でも狂っちゃったの?見せちゃダメでしょ」と思われる向きもあるかもしれませんが、これにより世界中のPCの仕様が「IBM仕様」に統一され、IBM PCの注目度は爆発的に高まりました。

設計図の開示とは、作り方を公開することです。もちろん他社もこれを真似てPCを製造し、次から次へと市場に参入しました。これが市場の拡大にとてつもない貢献をしたのです。おわかりですよね?市場が成長しなければ、売れるものも売れません。

IBM PCを駆動させるOSは「MS-DOS」を採用しましたが、これはMicrosoftが開発したものでした。IBMはAppleに対して5年のビハインドを背負っていたため、OSを自社で独自開発する時間がありませんでした。

ここまでをまとめると、IBM PCはオープンアーキテクチャという差別化戦略で注目を集め、一時は莫大な利益を上げました。しかしと言うべきかやはりと言うべきか、PCの設計図を開示したことで、コンパックやデルなどの企業がより安価な「IBM PC互換機」を販売しシェアを拡大させました。さらに、ソフトウェアの領域ではMicrosoftに対抗できず、「踊る巨象」であったIBMは、2005年にPC市場からの撤退を余儀なくされました。

踊りをやめてしまった巨象

1993年1月、IBMは前年1992年度の決算報告で、約49.7億ドルの赤字を計上したと発表。1991~1993年の損失を累計すると、150億ドルを突破します。これは当時の企業では最高額でした。

どうして、このような事態になるまでに至ってしまったのでしょうか?

理由は様々挙げられますし、その最たるものは後述しますが、この時点では「メインフレームの大成功」を挙げたいと思います。

IBMには昔も今も、とても優秀な技術をもった人たちが大勢います。1964年に大成功を収めたこのメインフレーム「システム360」は、1993年には「システム390」というバーションまでしっかりとした進化をしていました。ですから技術にはなんら問題がないのです。

ちなみに、凋落するIBMを見事に「ターンアラウンド」させた手法については、ぜひ以下の記事を読まれてください。

私が書き進める今回の記事は「なんでこんなことになってんだ?」「なにがおかしいんだ?」というように、私たちビジネスパーソンが「問題を作成する力を鍛えること」に主眼をおきますので、ここからはその「問題作成」のための考察を広げ、そして深めていきます。

損失理由

ここからは以下の書籍を引用しながら進めていきます。
(とても面白いので一読をすごくお薦めします)

さて、「システム390」に技術的な問題はない、しかし1991~1993年の「損失」を累計すると、150億ドルを突破してしまった。

これは、どうしてなのでしょうか?

失礼ながら、私は笑ってしまったのですが、当時の「メインフレーム・チーム」は、その理由をはっきりと明らかにしています。

メインフレーム・チームが、過去15ヵ月に「システム390」が売上高と市場シェアを急激に低下させた理由を調べたところ、「同業他社であるところの日立、富士通、アムダールが、IBMよりも実に30%~40%低い価格を提示している」、というものでした。

そう、「システム390」は、高価過ぎたんです。

当時のCEOであったガースナーは、当然のように「こちら(IBM)も価格を下げれば、対抗できるのではないか?」と、統括責任者に質問をしたところ、「何が何でも利益が必要なときに、かなりの売上と利益が失われる」という答えが返ってきたそうです。

これは私見です。「トンチか?」

「価格が高すぎて売れないのに高額設定をし続けること自体が顧客を失う原因になっているのに、それを改善しない。だから莫大な「損失」を生んでしまった」という、大きな要因であるのに。

要するに、IBMが価格を下げずに高価格戦略を維持し続けたことにより、多くの顧客が他社の安価な製品に流れたため、IBMは多額の「オポチュニティ・ロス=機会損失」を招いていたのです。

当時のIBMの利益は、なんとその「90%」がこのメインフレームという大型のサーバーの上で動くソフトウェアによってもたらされていたと言います。

当時のIBMは、それが意識的にか無意識的にかはさておいて、「システム390」から搾り取れるだけの利益を搾り取ろうとするような「搾取戦略」を取っていたのです。「システムの金額的にも、システムが持つ役割的にも、顧客が他社へ乗り換えることは容易ではないから」、ということですね。

そしてその後、優秀なメインフレーム・チームは従来とは全く異なる技術を採用し、ガースナーの「イエス!それでいこう!」という「賭け」によって販売価格を下げ、その結果として利益を回復させています。

ガースナーもさることながら、技術者集団であるメインフレーム・チームも、実に優れていることが確認できます。

では、問題はどこにあったのでしょうか?

この問題は、経営陣の側にありました。

同質性の罠とNOの文化

集団における問題解決の能力は、同質性とトレードオフの関係にあります。

心理学者のアーディング・ジャニスは、「ピッグス湾事件」「ウォーターゲート事件」「ベトナム戦争」などの「高学歴のエリートが集まり、極めて愚かな意思決定をした」という事例を数多く研究しました。その結果、どんなに個々の知的水準が高くても、同質性の高い人が集まると意思決定の品質が著しく低下することを明らかにしました。

これが、「同質性の罠」です。実に、恐ろしいことです。

さらに、当時のIBMが陥っていた「NOの文化」が、「同質性の罠」を一層悪化させました。

当時のIBMの各部門は、情報を隠し合い、互いに縄張りを守ることにばかり注力し、部門同士の協力が著しく欠如していました。この「NOの文化」は、ネガティブな意味での否定論者を大量に生み出し、変化やイノベーションに対する抵抗を強めました。大人数のスタッフが価格振替の管理に膨大な時間を費やし、顧客に良い製品を提供することよりも、自部門の特権や利益を守ることに必死でした。

当時、IBMの企業文化は、非常に権威主義的で、一貫性と従順さが求められていました。例えば、全員が「ダークスーツに白いシャツ」を着用し、決められたルールに従うことが重視されました。この文化は組織内での共通理解を生む一方で、多様な意見や新しい視点を排除しました。トップダウンの決定が多く、現場からのフィードバックや異なる意見が軽視されていました。

このような背景の中で、システム360の大成功により、IBMは長期間にわたって市場のリーダーシップを保持しました。しかし、この成功が逆に「現状維持」を好む傾向を強め、新しい挑戦やイノベーションへの意欲を減退させました。成功体験に固執することで、外部環境の変化に対する適応力が低下してしまったのです。

この点については、ドイツの哲学者フリードリッヒ・ニーチェの「混沌をうちに抱きしめるものだけが踊る星を生み出すことができる。」という言葉が示唆を与えてくれます。当時のIBMには、この「混沌」を受け入れる柔軟性と創造性が欠けていたのです。つまり、IBMは予測不能な市場の変動や技術の進歩という「混沌」に対してオープンでなければならなかったのに、外部の変化に柔軟に対応する力を失い、新しいアイデアや技術を取り入れることができなくなっていました。

この問題は、当時の経営陣が成功体験に固執し、変革に対する意欲を持たない同質性の罠に完全に陥っていたことにあります。多様な視点や新しい意見を全く取り入れず、情報の共有や部門間の協力も欠如し、適切な意思決定が全く行われなかったために、問題はますます深刻化していきました。こうした企業文化の根深い問題こそが、1991~1993年の巨額の損失を招いた真の要因だったのです。

悪魔の代弁者

さて、このような根深い問題を解決するためには、どのような人物が求められるのでしょうか?そう、ここで求めらられるのが「悪魔の代弁者」です。

悪魔の代弁者とは、多数派に対して「あえて難癖をつける人」のことです。

ここで言う「あえて」とは、単に性格がひねくれていて多数派に反対する人という意味ではなく、その役割を意識的に引き受けることを指します。IBMにはびこっていた否定論者とは全く異なり、悪魔の代弁者は正義の悪魔としての役割を果たします。

もともとこの用語はカトリック教会の用語でした。カトリック教会では、聖人候補者の欠点や奇跡の真偽を厳しく検証する役割として、悪魔の代弁者が正式に設定されていたのです。ちなみにカトリック教会におけるこの役割は、1983年に教皇ヨハネ・パウロ2世によって廃止されています。

ジョン・スチュアート・ミルは、その著書『自由論』で、健全な社会の実現における「反論の自由の重要性」を強調しています。

彼は、反論によって論破されない意見が正しいと想定されることと、反論を許さずにあらかじめ正しいとされることの間には大きな違いがあると述べています。自分の意見に対する「反証の自由」を完全に認めることが、自分の意見が正しいと言えるための絶対的な条件だと、ミルは主張しました。

ミルのこの指摘は、アダム・スミスの「見えざる手」を思い起こさせます。実際、ミルが『自由論』で述べたことは、スミスが『国富論』で経済分野における過剰な統制を批判したのと同様に、政治や言論の分野での過剰な統制に対する拒否を展開したものです。

市場原理によって価格が適切な水準に収束するように、意見や言論も多くの反論や検証を経ることで優れたものだけが残ると考えました。これにより、優れた意見を保護し劣った意見を排除する統制の考え方とは対立することになります。

当時のIBMの顧客らに目を向けると、業界を支配し高い利幅を取るIBMの価格の傘を打破したいと強く望んでいました。加えて、コンピューターを個々の社員が使えるようにすることへの関心も高まっていました。IBMが得意としたメインフレームの「中央集中型コンピューティング」ではなく、Appleらのような「分散型コンピューティング」が求められる、というように時代はどんどん変わっていたんですね[1]。

当時のIBM社内が、否定的な意見や批判を避ける傾向が強く、部門間での情報共有も不十分だったことは既に述べました。これはまさにミルが指摘したように「反論を許さない風潮」が組織全体に蔓延していたということです。

悪魔の代弁者の存在が求められる理由がここにあります。彼らの批判や反論が、組織の硬直した考え方を打破し、健全な意思決定を促すのです。

現在では、組織における意思決定のクオリティは、喧々諤々の意見交換が行われれば行われるほど高まることが、 多くの実証研究によって明らかにされていますが、ミルは150年前にそれを確信していたわけです。

そして、この指摘はまた、反論を抑え込むこと、つまり過剰に思想や心情を抑圧することの危険さにもつながります。

たくさんの反論に耐えられた言論が優れたものだとすれば、反論を封じ込めることで、「言論の史上原理」は機能不全に陥ることになります。まさに、当時のIBMでは、この機能不全が起きていたのではないでしょうか。

当記事はここで閉じることにしますが、このIBMが体験した「同質性の罠」は、実は現代の多くの企業が陥っている状況と言えるでしょう。

私たちはあらためて、反論や批判の自由がいかに重要であるかを再認識し、悪魔の代弁者のような役割が組織の硬直した考え方を打破し、健全な意思決定を促すために不可欠であることを知る必要があると思います。

「反論の自由」を確保することで、短期的には迅速な問題解決が期待でき、長期的には持続的なイノベーションが促進されることでしょう。


[1]
この点は、ぜひ一人ひとりお考えいただきたいですね。歴史を振り返ると、古いOSの上で新しいOSが駆動し始め、一定のラインを超えると相転移が起こるということが何度も起きています。

産業革命時の蒸気機関から内燃機関への移行、アナログからデジタルへの転換(例えば、アナログテレビからデジタルテレビへの移行)、電話からスマートフォンへの進化、これらは全て同じ見方ができます。

これは、現代企業においても同じ見方が可能です。昭和の「終身雇用」「年功序列」といった労働慣行の上に、リモートワークやフレックスタイム制、ジョブ型雇用といった新しい働き方が導入されています。これは労働者のライフスタイルや価値観の変化に対応するための相転移と言えるでしょう。

昭和時代の「縦割り組織」「トップダウン型の意思決定」から、「フラットな組織」「ボトムアップ型の意思決定」へと変わりつつあります。特にスタートアップ企業やグローバル企業においては、この変化が顕著です。

昭和の「成長重視」の経営から、「持続可能性」や「社会的責任」を重視する経営へとシフトしています。気候変動や社会問題への対応が求められる現代の課題に応じた変革です。

昭和時代の「大量生産・大量消費」モデルから、現代の「個別対応・顧客体験重視」モデルへの移行もそうですね。企業は顧客一人ひとりのニーズに応じたカスタマイズやパーソナライゼーションを追求するようになってきました。

もちろん、私たち一人ひとりのOS=意識についても同じことが言えます。「永遠に続く」などというものは存在しません。ですから私は一足お先に、古い時代の上で、新しいOSを搭載して生きております。

皆さんも、いかがですか?


「いやいや!ガースナーはどうやってこんな大ピンチを乗り切ったんだよ!」と、気になりますよね?繰り返しますが、それは以下の記事をよんでから・・・続く


・・・以下を読みましょう。本当面白いです。たぶん、いえ、絶対、図書館にあると思います!(なかったらごめんちゃいmm)


以下「単行本」149ページからの「悪魔の代弁者」には「キューバ危機」の事例が取り上げられていますが、これが実に面白いんです。で、僕はこの事例に代わる案はないかと探しに探して「IBMの危機」をテーマにしました。


僕の武器になった哲学/コミュリーマン

ステップ2.問題作成:なぜおかしいのか、なにがおかしいのか、この理不尽を「問題化」する。

キーコンセプト22「悪魔の代弁者」

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