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【脱構築】テクノ封建制に「デリダ」で挑む

ギリシャの経済学者であり、同国元財務大臣でもあるヤニス・バルファキスが、その著書『テクノ封建制:資本主義を殺すものは何か』(未翻訳)の中で、GAFAMをはじめとするビッグテック企業の「テクノ封建制」を唱え、いま世界中で議論を巻き起こしているといいます。(Voice2024年4月号)

ここで言うところの「封建制」とは、主に9世紀から15世紀にかけて栄えた社会・政治的な体制として知られる「ヨーロッパの中世封建制」と、先述のビッグテック企業群がデジタル空間上で莫大な利益を上げ続けるシステムに類似性がある、ということです。

しかしながら「そもそも封建制がわかりません!」という方も多くいらっしゃるので、これについてはChatGPTに解説してもらいましょう。「知ってるよ!」という方は読み飛ばしてください。

※この引用部分は「封建制とは何か?」の説明をしたいだけなので、ChatGPTにはその良し悪しではなく「ニュートラル」な解説を指示。

この制度は、土地所有と軍事的保護を基盤として成り立っていました。

1.封建社会の階層:封建社会には明確な階層制が存在し、大まかに分けると以下のような構造になっています。

・王: 国を統治し、最上位に位置する。

・貴族(領主): 王から土地(封土)を授かり、その土地の支配者となる。貴族はさらに土地を騎士に分与することがあります。

・騎士: 貴族から土地を授かり、戦時には軍事的な役割を担う。安全の確保と引き換えに土地を受け取ります。

・農民(農奴): 土地を耕すが、土地を所有することはできず、生産物の一部を領主に納める義務がある。

2.封建制の特徴:封建制の最も特徴的な点は、土地所有と軍事的保護の関係にあります。貴族は王から土地を授かり、その土地を耕す農民を保護します。農民は土地を耕すことで生計を立て、その代わりに収穫物の一部を貴族に納めたり、労働力として貴族を支えます。

3.相互依存関係:封建制の下では、社会の各階層は互いに依存していました。王は貴族の支持が必要であり、貴族は農民の労働力に依存していました。このような相互依存関係が封建社会の安定と持続を支えていたのです。

テクノ封建制とは、当然ながらこの封建制という中世の社会構造になぞらえて、現代のデジタル経済における巨大テクノロジー企業、通称ビッグテックの役割を説明するものです。封建制では、領主が土地を支配し、農民はその土地で働いて生活していました。つまり、テクノ封建的な社会において「大企業がデータ=現代の土地」を支配し、「ユーザー=現代の農民=私たち」は、その「デジタル環境=社会構造」の上で日常の活動や生活をしている、というわけです。

そんなテクノ封建制における領主はGAFAM(Google、Apple、Facebook、Amazon、Microsoft)に代表されるビッグテックであり、彼らが世界中の厖大なデータや、超広大なデジタルプラットフォームを通じて集中された「大きな利益と権力」を得ています。

これに対してユーザーである私たちや小規模企業は、これらのプラットフォームに激しく依存しているため、大企業の規則やアルゴリズムの影響を非常に大きく受けます。テクノロジー企業は経済的利益を莫大に得ている一方で、その恩恵が社会全体に平等に分配されているわけではありません。つまり、経済的格差が開き続けています。

しかしながら、私たちはGAFAMからたくさんの恩恵を受け取っています。

つい20年余前まで、有益な情報というものは一部の権力者たちだけが持ち得るものでした。例えば、いま流行りの新NISAなどの優良なサービスは、この開かれた情報化社会が誕生しないことにはあり得なかったでしょう。これは「世界中の情報を整理し、世界中の人がアクセスできて使えるようにする」というビジョンに情熱を捧げたラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンに「ありがとう」と言わなければなりませんね。無知な私たちは毎日「Google先生」と「YouTube」のお世話になっているはずです。

今ではスマートフォン無しの生活は考えられないでしょう。私たちは、「iPodと携帯電話の融合」というアウフヘーベンを成立させた開発チームと、大学でカリグラフィの美しさを学んだジョブズのデザインセンスが生み出したAppleのiPhoneを、もう決して手放せません。「iPhoneが生まれなければ今日の生活は考えられない」と言っても疑う人はいません。

TwitterやInstagramについては「人がバカになってしまう」という研究が有名であり、したがって私はFecebookもInstagramもThreadsも大嫌いですが、毎分・毎秒憑りつかれたように狂って「いいねください合戦」を繰り広げている暇な人々は多くいらっしゃいます。いえ、否定はしません、多様性です。

今や買い物はスマホでポチ。Amazonが生み出したEC=eコマースを普段使いしている人は多くいらっしゃることでしょう。洋服や眼鏡などの身に付けるものまでも、あるいはテスラなどの自動車ですら、テクノロジーの進化によって、スマホでポチです。驚きですよね。これもAmazonのジェフ・ベゾスによる「購買革命」によってもたらされました。

ビル・ゲイツが創ったMicrosoftはビジネスに欠かすことができません。WindowsやOfficeはもちろん、現在ではCOPILOTのベースとなる「OpenAIへの投資」のおかげ=ChatGPTによって私の仕事の生産性は何倍になったのか、もはや全くわかりません。いまや私は「その辺の人と話すよりChatGPTと話す方が楽しくて仕方がない」「社長?お偉いさん?話してて楽しい?」といったようなスピノザ的な人間(怒られる)になってしまいました。

このようなメリットばかりの生活を享受できているわけですから、「まあテクノ封建制も仕方がないよね」とこっそり呟いて、そっと本記事を閉じていただくこともできるでしょう。

しかし、そこで思考停止してしまって、本当に良いのでしょうか?

よくよく考えてみると、テクノ封建制が「良い」と見なすことは難しいでしょう。既に述べたことですが、このシステムでは少数の企業が大きな力を持ち、その結果として経済的な不平等が増大するからです。一部の人々や企業が莫大な富とデータを掌握することで、市場での競争が阻害されています。

このデータ支配は、新規参入者や小規模企業が競争する際の障壁となり、既存の大企業に有利な状況を作り出します。また、データとデジタルリソースの集中はつまり、資本の集中を意味し、経済的な富の偏在をさらに加速させます。このようにして、社会の上層部と下層部の間で経済的な隔たりが広がり、中間層の縮小や社会的な不安定化を引き起こします。

あるいは競争が減少すると、イノベーションの抑制にも直結します。これは何を言っているかというと、市場における主要なプレーヤーが少数である場合、彼らは既存のビジネスモデルを維持することにより、「短期的な利益を最大化するインセンティブ」を持つということです。このため、「リスクを取って新しい技術やアイデアを探求するよりも、現状のビジネスを守る方向に資源が投じられがち」ということです。その結果、技術革新のペースが遅れ、社会全体の経済成長、あるいは地球温暖化をはじめとする環境問題にも大きな悪影響をもたらす可能性は否定できません。

「ええ!?じゃあGAFAMは良いの?悪いの?どっちなんだい!」

と思われることでしょう。

問題は「ここ」だと思います。

二項対立に縛られていないか

ここでぜひとも考えたいのが、ポスト構造主義の代表的哲学者として知られるフランスの哲学者、ジャック・デリダが唱えた「脱構築」という哲学的思考方法です。

脱構築というのは、簡単に言えば二項対立の構造を崩す、ということです。デリダによれば、西洋哲学は「善と悪」「主観と客観」「神と悪魔」のような「優・劣」の枠組みを前提にして構築されてきたけれども、脱構築では、そのような「優・劣」の枠組み自体がもつ矛盾性を明らかにすることで、過去の枠組みから「脱」し、新たな枠組みの「構築」を目指します。

少し拡大解釈して、脱構築を道具として使いやすくしてみましょう。例えば、AというテーゼとBというテーゼがあったときに、ある人がAだということを主張しているとします。そしてこの人を「ヤッツケたい」と思うとき、その人の議論の枠組みに乗って「僕はAではなくBだと思う」というアンチテーゼをぶつけるということを、多くの人はやってしまうのですが、最も強力なのは、「そもそもAなのかBなのか、という問題設定自体がおかしい」と指摘することなんですね。向こうが出してきた議論の枠組みや問いの前提を、そもそも破壊してしまう。

この「脱構築を使って超大物を一刀両断にした」と言えるような、とても有名で面白いエピソードがあります。

20世紀を代表するフランスの哲学者であり、ノーベル文学賞を受賞することが決定されていながらもこれを辞退した人物がいます。ジャン=ポール・サルトルです。彼は、劇作家、小説家、政治活動家、文芸評論家としても活躍をしており、多くの人々に影響を与えたことで知られています。

20世紀中ごろのことです。当時、特に影響力を持った哲学の一派であるサルトルの「実存主義」は、個人の自由、選択、責任を強調するものであり、そんな素晴らしい主義・主張をするサルトルは、論争において負け知らずの存在。彼の主張はとても多くの人に受け入れられていました。

ある時、そんなサルトルに引導を渡した、というより「息の根を止めた」ことで一躍名を上げた人物がいます。その人物は哲学者ではなく、なんと文化人類学者でした。彼の名はクロード・レヴィ=ストロースです。

レヴィ=ストロースは、当時サルトルが振りかざしていた「新しいか古いか」という二項対立について、その二項対立が内在的に有している「西洋は進化している一方で、辺境は未開であり劣っている」という枠組みそのものがダメだ、と攻撃しました。これは目から鱗ですよね。「確かに!先進的ではない東洋は、それだけが理由で劣っているとでも言うのか!?」と。

サルトルはマルクス主義に傾倒していました。マルクス主義は、弁証法的歴史観、つまり、歴史には法則があり、私たちがその法則を理解すれば、歴史を正しい方向に主体的に動かしていくことができる、という考え方をします。一見すると、この主張は間違っているようには思えません。

しかしこのアイデアに対して、レヴィストロースは『野生の思考』という本の中で、この考え方、つまり「歴史が発展する」という考え方を、「パリから一歩も出たことのない人間が上から目線でものを言っている」と批判したわけです。

この批判があまりにも的を射ていると、おそらく当のサルトル自身も感じたのでしょう。サルトルは慌てふためいて、この批判に対して「ブルジョアの戯言だ!」などと苦しい反論を繰り出しますが、 このファイトを眺めていた人からすると、すでにサルトルの敗戦は明確でした。この論戦以後、サルトルが主導してきた実在主義は、急速に影響力を失っていくことになります。

歴史が発展するということは、すべての社会、文明は、発展というものさしの上で進んでいる社会、文明と、遅れている社会、文明とに分かれることになるわけですが、それはヨーロッパ側の価値観を一方的に押し付けて比較しているだけに過ぎない、というのがレヴィ=ストロースの批判の骨子です。

繰り返せば、脱構築の基本的な考え方は「二項対立の構造を崩す」ということです。サルトルの提示した二項対立というのは「発展と未開」という二項対立であり、人々は主体的に社会に関わること、これをサルトルはアンガージュマンと呼びましたが、それによって歴史をより良い方向に発展させることができる、と主張したわけです。

サルトルの提案した「発展と未開」という二項対立の構造に対して、その枠組み自体にヨーロッパの傲慢が表出していると批判して、これを崩したわけですから、レヴィ=ストロースの批判は脱構築のテクニックを用いていると言えますよね。

というようなわけで話を戻せば「GAFAMやビッグテックは良いのか?悪いのか?」か、という二項対立からはとっとと脱して「新たに何が構築できるのか?」と思考することが非常に重要ではないか、というのが私の主張ということになります。

「GAFAMが良いか悪いかという話しを振ったのはお前だろう!」というミスリーディングな手法を取ったのは認めますが、要するに「GAFAMをどう使うのか?」「何ができるのか?」ということについて、私たちはもう少し考えてみても良いだろうと思うのですよね。

テクノ封建制について、私自身は決して「良い」とは思いません。ですから「テクノ封建制はケシカラーン!」と訴えることも大切ですし、実際にはそうしていきますが、しかし一方で、そのような主張をしてもGAFAMの進化が止まらないことも事実で、であるならば「いま、私に何ができるか?」と、自身に問うてみて、色々と試してみることが必要なのではないでしょうか?

おそらく一番望ましいのは、GAFAMが得た莫大な利益を、彼ら自身が農奴と位置付けられる私たちに対して何らかの形で還元する、さらに望ましいのは彼らが環境問題に投資して、彼らの時価総額の成長速度よろしく、環境問題の解決速度もまた高速化させることだと思います。

例えばGoogleが環境ビジネスを取り上げて、バズりそうな動画を自社が持つYouTubeでバンバン発信する。それを見たインフルエンサーが環境ビジネスについての投稿をガンガンに回し始める。そうするとアッという間に世界中のリテラシーの無い人々でさえ、否が応でも世界中に「環境問題の解決に向けたアクション」が市民権を得ることでしょう。まあ、これはあまりに荒唐無稽で他力本願すぎる考え方ではありますが。

二項対立の枠組みはとても便利なので、企業経営や実社会の問題を整理する際によく用いられます。よくあるのは「強みと弱み」や「機会と脅威」などですが、しかし、これらの枠組みを設定することによって、かえって思考の広がりが制約を受けてしまうということもあります。

そのような時には、二項対立の枠組みそのものを換骨奪胎してみる「脱構築」を考えてみてはいかがでしょうか。


最後に

私が本来「武器になる哲学」を引用・・・丸パクリさせていただく記事は、武器になる哲学が、どのように私自身の武器になってくれたか、というものを皆さんに共有しつつ、「もしもご興味があれば、皆さんも山口周しませんか?」という勝手な布教活動が目的です(なんにも怖くないし、1円も取られません。「悪いこと止めて良いことしよう」と言っているだけです)。

したがって本記事で取り上げた「脱構築」については「なんでこのオッサンたちは、人の貴重な時間を使って、誰のためにもなってない、何の役にもたってない、1ミリも意味のない定例会議で、何十年も同じ話をしてるんだ?」という、そのバカみたいな無駄を打破するための武器になってくれましたよ、という共有をするつもりでした。

そんな折、PHP研究所さんが発刊している雑誌「Voice」で「テクノ封建制を乗り越えよ 大澤 真幸/山口 周」という対談がなされたものですから、「テクノ封建制って脱構築できますかー!?」と、どうしても挑んでみてくなりました。

ビッグテックはどうせ無くなりません。仮にGAFAMの一角が陥落しようとも次が台頭するだけです。現にマグニフィセントセブンという数え方もされているくらい。ですから「ケシカラン!」と声を上げることと同時に「自分には何ができるか?」ということもまた、考える必要があると思います。

私は私の大切な人だけではなく、彼ら彼女らの「次の世代」のために、ちっぽけで構わないから「いま自分に何ができるか?」をいつも考えています。

だから、この記事を書いています。



僕の武器になった哲学/コミュリーマン

ステップ1.現状認識:この世界を「なにかおかしい」「なにか理不尽だ」と感じ、それを変えたいと思っている人へ

キーコンセプト14「脱構築」


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