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【予定説】昇進や評価の「透明性」はあるか?

「因果の誤謬」とは、一連の事象間に因果関係が存在すると、誤って推測する論理的誤りです。この誤謬は、単に事象が時間的に連続している、あるいは一見関連があるように見える場合に、私たちが間違った因果関係を見い出すことによって生じます。

ではどのような「因果の誤謬」が存在するのか?というと、きっと星の数に満たないくらいの数はあるので、今回の記事においては次の可能性についての考察をしてみたいと思います。

それは「必ずしも努力が報酬に直接結びつくわけではない」ということです。もう少し言及すれば「努力が自然に報酬へと繋がるなどと上司は言っていない」というこの現実に、「因果の誤謬」がある、ということになるでしょうか。

のっけから難しい内容ですね。ですのでもう少し噛み砕いたのが本記事タイトルの通り「昇進や評価の透明性はあるか?」という問いです。

予定説

ここでいきなり本記事のキーコンセプトをご紹介すれば「予定説」とは次のような考え方です。

「ある人が神の救済に預かれるかどうかは、あらかじめ決定されており、 この世で善行を積んだかどうかといったことは、まったく関係がない」

これがどのくらい「ヤバイ」考え方なのか、現代の私たちには非常にわかりにくいことだと思います。

これは本記事における「二つ目のヤバイ」なのですが、この「ヤバさ」をご理解いただくために、少しだけ歴史を遡ったうえで、現代の私たちビジネスパーソンの「昇進や評価の透明性はあるか?」という考察をしていきます。そして「一つ目のヤバイ」はこの後すぐに登場します。

「鋭い勘をお持ちの方であれば、この時点で「ふむふむ、言いたいことはわかたぞ」というふうに、シャーロック・ホームズを気取られることでしょう。

ローマ・カトリック教皇

まずはじめに、現代の私たちが「ローマ教皇」を思い浮かべるとき、おそらく多くの人は「ああ、バチカンの偉いお爺様のことでしょう?」というイメージだけはあるものの、何をしているかよくわからないという方も少なくないかもしれません。

現在のキリスト教最大派閥であるローマ・カトリック教会の教皇はフランシスコ教皇で、2013年に就任しました。彼は「ラウダート・シ」という回勅を発表し、気候変動と環境破壊に対する教会の立場を明確にするなど、教皇として初めてこれほど積極的に環境問題に取り組んでいることでも有名です。

彼はまた、貧困層や社会的に排除されがちな人々への強い関心を持っており、彼らに対する教会のサポートと関与を強化するよう呼びかけています。社会的・政治的問題に積極的に発言しており、このような姿勢は一部から支持されていますが、一方では「教会が政治的な立場を取るべきでない」とする批判もあります。

ここからのキーポイントは、「教会が政治的な立場を取るべきでない」という意見が持つ歴史的な背景です。過去、ローマ・カトリック教会は「世俗の権力」と「死後の権利」について相当な影響力を持っていたのです。

中世キリスト教社会の世界観

ローマ・カトリック教会の教皇がこのような大きすぎる権力を持っていたのは、中世からルネサンス期にかけてと見られています。具体的には、5世紀から16世紀までがこの影響力のピークと考えられます。

「世俗権力」を持つようになったのは、ローマ帝国の衰退とともに、キリスト教が公認され、教会が社会的な力を増していったことに起因します。特に、754年のピピンの寄進から始まり、教皇はイタリア半島中部に広がる教皇領を支配する「世俗君主」となりました。この地位は、なんと1870年のイタリア統一まで続きます。

この世俗君主として中でも有名なのは、グレゴリウス1世(在位590-604)、通称グレゴリウス大教皇がいます。彼は教皇権の地盤を固めるだけでなく、ローマ市の実質的な支配者としての政治的な権力もその手にしました。

また、1077年に起きた有名な事件「カノッサの屈辱」では、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が、教皇グレゴリウス7世に対して謝罪し、その赦しを乞うためにカノッサの城まで行き、雪の中で三日間待たされたといいます。皇帝に対してですよ?中世ヨーロッパにおける教皇の権威・権力がどれだけ強大であったかを示す、とても象徴的なエピソードです。

「世俗権利」に加えて教皇は、「天国の鍵を持つ者」として、「死後の権力」も有します。彼らは贖罪符の発行などを通じて、信者の死後の運命に影響を及ぼす権力を行使しました。特に、中世の贖罪符販売が社会に与えた影響度合いは、後の宗教改革に続く「火種」を抱えていました。

この時代の重要な登場人物としての教皇は、レオ10世(在位1513-1521)です。彼の時代に贖罪符販売問題がピークを向けえていくことになります。

ここでいったん質問です。この権力の「ヤバさ」は、もうおわかりいただけるでしょうか?まだわかりづらい?何がどうヤバイのか、敢えて一言で表現します。

それはもちろん

権力の超集中」です。

それもかなり度を超えた、いえ、当時においてローマ・カトリック教皇は、世界一の権力者だったと見做すことができます。これが本記事における「一つ目のヤバイ」です。

もちろん、同時期のビザンツ帝国、イスラム帝国、後のオスマン帝国、または遠東の中国皇帝なども非常に強大な権力を持っていました。しかし、教皇の権威の広範囲に及ぶキリスト教徒のコミュニティに対する精神的な支配力と考えてみれば、その影響は計り知れないものがありました。

ここで、あらためてそのコミュニティエリアを見てみると、現在のイタリア、フランス、スペイン、ドイツ、イギリスだけではなく、中東の十字軍遠征地域や、あるいは北アフリカの一部にまでも及んだことがあります。

では、権力が超集中していることはわかった。そのエリアもわかった。しかし具体的に何がどうヤバイのか、いまいちピンとこない、という方もいらっしゃるかもしれません。

ここで少しばかり当時の人々と、その社会を作っていた世界観について触れます。でないと「権力の超集中具合」が理解できないからです。

キリスト教が社会基盤

ご存知の通り、中世ヨーロッパではキリスト教は社会の基盤となっており、教会は地域コミュニティの中心でした。教会は、礼拝、祭日、教育、さらには社会福祉活動まで、様々な社会的役割を果たしていました。人々の生活の節目節目には宗教的儀式が存在し、洗礼、結婚式、葬儀などの「サクラメント=聖礼典」が人生の重要なイベントでした。

全ての人は原罪を背負って生まれる

中世のキリスト教では「人間の本性が堕落しているという教え=原罪の教義」が大前提です。これはアダムとイブの罪が全人類に遺伝したとされ、人々は生まれながらにして罪を背負っているとされる教えです。したがって、日常生活における個々人の行動は、この「罪からの救済」を求めるものであり、教会の教えに従い、祈り、懺悔し、善行を積むことが奨励されました。

ちなみに先に述べた洗礼は、この「原罪からの洗浄」を意味し、信者が神との新しい関係を始めることができるようになる儀式ですね。洗礼を受けることによって、信者はイエスと共に新しい生命を歩み始めるわけです。

ではなぜ人々は教会の教えに従うか、その理由の一つとしては、「死後の救済」です。この当時、死後の生活は、現世の生活よりも重要視され、天国への入り口である煉獄を経ての救済が、人々の最終的な目標でした。だから教会は地獄の苦しみを頻繁に説き、信者に強い恐怖心を植え付けていました。

キリスト教徒でなければ人ではない

そして当時の社会ではキリスト教徒であることが「正常」であり、「非キリスト教徒」というのは社会的に受け入れられていない状態でした。キリスト教徒であることが事実上の義務であり、三位一体の信仰(父、子、聖霊の一体)は絶対的なものとされていました。

三位一体とは

父(Father): 創造の源、全宇宙と人類の創造者。

子(Son): イエス・キリストを指し、神が人間の形を取って地上に降り、十字架での死と復活を通じて人類の罪を救済したとされる。

聖霊(Holy Spirit): 信者の内に宿り、導きと力を与える存在とされ、信者の霊的な成長と神との結びつきを助ける役割を担う。

これは神がどのようにして自己を啓示し、人類と関わり、救済を実現するのかを説明するものです。信徒=当時の人々はこの教義を通じて、神の全能性、愛(アガペー)、そして他者への貢献の重要を学ぶのです。

私個人的な意見としては「愛と他者への貢献」というキリスト教の教義は素晴らしいものであると考えています。しかし、このような教義が絶対視されることにより、キリスト教徒でない人々や、異なる信仰を持つコミュニティに対する偏見、時には排他性などが生まれやすくなりました。異教徒や異端とみなされた人々は、しばしば社会的な迫害や差別の対象となり、彼らの信仰や文化が否定され、時には暴力にさらされることもありました。

異端と破門

異端審問という言葉は聞いたことがあると思います。中世ヨーロッパのキリスト教社会では、教義に対する異論や異端的な信仰は、非常に厳しく扱われました。異端とされた人々は教会から破門されてしまいます。破門されると、なんと「社会から排除される」ことになるわけです。つまり破門されるということは「社会的な死」とも言えるほど深刻なものでした。

重大な異端事件においては、死刑が宣告されることもありました。特に著名な例としては、チェコの宗教改革者ヤン・フス、イタリアの哲学者ジョルダーノ・ブルーノが火刑に処された事例でしょう。

ヤン・フス (1369-1415)

ヤン・フスは、現在のチェコ共和国にあたる地域で活動した宗教改革者です。彼はプラハ大学で教鞭をとり、当時広まりつつあったジョン・ウィクリフの教えに影響を受けました。そのウィクリフは教会の腐敗を非難し、「聖書の権威」を強調していました。

本記事において、このウィクリフの主張は非常に重要な意味を持ちます。ジョン・ウィクリフは14世紀のイングランドの神学者で、教会の改革を訴えた重要な人物です。彼の教えが、この後ご紹介するプロテスタント宗教改革の先駆けと見做されています。

ウィクリフの主張は「聖書こそがキリスト教信仰の最高の権威である」というものです。どういうことかというと、彼は教会の伝統や教皇の権威よりも聖書を重視すべきだと考え、「聖書がすべてのキリスト教徒にとって直接的にアクセス可能で、理解可能にするべきだ」と訴えました。

どういうことかわかりますか?これは当時、聖書は誰もが読める物ではなかったということを示しています。

基本的に当時の聖書という物は、聖職者らといった特別で限られた人しか読むことができませんでした。

また、識字率の問題もありますが、仮に誰しにもアクセス権が与えられていたとしても、そもそも聖書は「ラテン語」で書かれた書物だったため、ラテン語圏外の人、ラテン語を学んでいない人には読めないのです。

ですから本記事のタイトルでお示ししている「透明性」というキーワードがここで意味を持ちます。権力を持つとされる聖職者らしか読めない聖書の教え、それが本当に正当かどうかというのは、その書物を読むことの出来ない人たちにとって、果たして判断可能なのでしょうか?

フスはウィクリフの教えを広め、教会改革を訴えました。彼は特に聖職者の道徳的堕落と教会財産の乱用を批判し、聖書のチェコ語訳を支持し、一般の人々にも聖書を読む機会を提供しました。フスは世間に広く支持されましたが、しかし異端です。教会の権威に対する脅威と見做されてしまいました。

1414年、フスはコンスタンツ公会議に召喚され、異端の疑いを晴らす機会を得ることになりました。しかし、彼が到着すると逮捕され、異端審問を受けます。フスは自らの信念を撤回することを拒否し、1415年に異端と宣告され、火刑に処されました。

ジョルダーノ・ブルーノ (1548-1600)

ジョルダーノ・ブルーノはイタリアの哲学者であり、修道士でもありましたが、彼の思想はカトリック教会の教義と衝突しました。彼はどのような思想を持っていたのか?さぞ恐ろしい異端思想を持っていたのでしょうか?

ブルーノが主張したのは宇宙観についてのもので、これはパンテイズムに近い思想とも結びついていました。パンテイズムでは、神と宇宙は一体であり、神は自然の法則そのものであり、全てのものに宿るとされます。

これは当時主流だった地動説と大きく異なるものでした。地動説では、地球が宇宙の中心であり、他の天体は地球を中心に回っているとされていましたが、ブルーノはこれに反対し、宇宙は無限であり、数多くの星や惑星が存在し、それぞれが自身の世界を持つ可能性があると考えました。

ブルーノは1592年に逮捕され、ローマの異端審問にかけられます。彼は長い拘留期間を経た多くの議論と審理の後、1600年に異端と宣告されました。彼もまた自らの教えを撤回することを拒否し、ローマで火刑に処されました。

思想や信仰の自由に対する当時の限界がわかりますね。彼らの文字通り命をかけた叫びが、後の宗教改革や科学革命につながっていきます。

少し長くなりましたが、ここまでの説明は、当時ピークを迎えていたローマ・カトリック教皇への「権力の超集中具合」を知るためであり、このように権力が超集中することはつまり、人々の実際の生活も、死後の生活も教皇次第であった、ということを知るためでした。

権力の超集中は、本当に「ヤバイ」のです。ということで「一つ目のヤバイ」について、できるだけ詳しく解説をしました。超権力を有する教皇に意を唱えることの「ヤバさ」について、おわかりいただけたことでしょう。

宗教改革

マルティン・ルター(1483-1546)

皆さんもご存知の通り、16世紀に始まった宗教改革はマルティン・ルターによって口火を切られています。

ルターの問題提起はローマ・カトリック教会にとっては非常に「面倒くさい」ことでした。というのも彼らの大きな財源であった贖罪符に関する神学的な意味合いに「ケチ」をつけたからです。

実はこの時期、贖罪符についてはローマ・カトリック教会の内部でも「アレはどうかと思うけどね」という神学者も多くて、綺麗に整理のついていない状態のまま、半ば教皇をはじめとした権力者が作り出した「空気」に押し切られる形で販売されていたという側面があります。ルターの問題提起はそういう意味で、ローマ・カトリック教会の「痛いところ」を両断します。

ではどのように?ルターはカトリック教会に対して、実に95個もの指摘を突き付けます。これは『95ヶ条の論題』として知らており、今でもネットで普通に読むことができます。『るろうに剣心』世代の私の認識では、天才でさえ一度の限界切り裂き数は「9」です。子どもの頃に皆が挑戦したあの有名な「九頭竜閃」ですね。「95はいくらなんでも多くない?」と驚きました。

この論題は、教皇や教会が持つ「鍵の権力」(罪の赦しを行う権力)への疑問の投げかけです。彼は、教皇は「聖書の教えに基づく権威」のみを行使するべきであり、贖罪符の販売はキリスト教の教義に反すると批判しました。贖罪符は、教会が「罪の赦しを金銭と引き換えに提供する証明書」であり、ルターはこれが真の悔悛と改心を促すものではないと訴えたのです。

聖書によれば「真の悔悛と改心が救済への道」であるべきとされているのに、それを金で買えてしまうのは信仰とは言えない、ということですね。

ルターは聖書を暗記していたと言われています。これは聖書をお読みになられたことのある方からすると驚くべきことだと思いますが、そのくらい聖書に真摯に向き合った、ということが重要だと私は考えています。だからこそ彼は「教皇が世俗の権利までもを持つのはおかしい!」と考えていました。

では、このような事=異端を述べる人がどのようなことになるか、ここまでお読みの方からすると、もうおわかりですよね?そう「破門」です。ルターはカトリック教会から破門され、帝国から追放されることになります。つまり「社会的な死」を意味します。

しかし彼は、ザクセン選帝侯によっての保護を受け、信学の研究にさらに打ち込みます。この後ルターの教えはドイツばかりか、ヨーロッパへ、全土へ広まっていき、やがて「プロテスタント」と呼ばれる大きな運動へと繋がっていくことになります。

「カノッサの屈辱」でも見たように、皇帝をも蔑ろにする教皇権力への不満は高まっていました。それはそうでしょう。例えば、地域の支配者や有力者らも、自らの権力を拡大させたいわけです。ですから教会からの独立を望んでいました。ルターの宗教改革は、これら権力者にとって、教会からの権力を奪回する機会となりました。つまり、ルターと利害が一致したのです。

そしてもう一つ、テクノロジーの進歩も忘れてはなりません。当時新しい技術であった「印刷機」の普及により、ルターの『95ヵ条の論題』が急速に拡散されました。これにより、ルターのアイデアは広範囲に渡って知られるようになり、教会に対する批判的な議論が活発化しました。彼は有力なフォロワーとテクノロジーを同時に得るという「時の運」にも恵まれました。

ルターは聖書をドイツ語に翻訳するという「超特大イノベーション」も起こします。ルターは新約聖書の翻訳を1522年に完成させ、これは『9月聖書』として知られるようになりました。その後、旧約聖書の翻訳も続けられ、完全なドイツ語聖書は1534年に出版されました。

これは現代ドイツ語の基礎を形成する大きな一助となっています。彼の翻訳は教会のラテン語聖書に代わるものとして、一般の人々にも聖書を読む機会を提供しました。これにより、信仰における個人の自立と、聖書の教えへの直接的なアクセスが促進され、プロテスタント宗教改革のさらなる進展を支える重要なものです。彼は「聖書=情報の透明化」を果たしたのです。

ジャン・カルヴァン(1509-1564)

本記事の主人公は彼、ジャン・カルヴァンです。いやあ、大変長らくお待たせいたしました。

まず、プロテスタントという言葉は、いまやごく普通に用いられる名詞になってしまいましたが、改めて確認すれば、もともとは「意義を申し立てる」という意味です。

これを意訳すれば、つまりは「喧嘩を売る」ということで、ではその喧嘩を売る相手は誰なのかというと、ローマ・カトリック教会ということになるわけですから、これがどれほどすごいことなのか、ということはもう皆さんにはご理解いただけますね。マルティン・ルターの時代への登場の仕方は、実にロケンロールだったのです。

さて、そんなルターの「ロケンロール」なシャウトを受け付き、これをさらに洗練されるようにして、プロテスタンティズムに強固な思想体系を与えたのがジャン・カルヴァンでした。この思想体系が、やがて資本主義・民主主義の礎となり、世界的な影響力を発揮していくことになります。

ではそのポイントは何か。ここで遂に「二つ目のヤバイ」が登場します。ええ、やっとです。

ということで、予定説とはどのような考え方か、もう一度確認します。

予定説とは

「ある人が神の救済に預かれるかどうかは、あらかじめ決定されており、 この世で善行を積んだかどうかといったことは、まったく関係がない」

さあ、これがどのくらい「ヤバイ」ことなのか、もうおわかりですよね?カルヴァンは、ローマ・カトリック教会だけではなく、実はルターさえも否定している、ということを言っています。私たちのようなキリスト教の信者ではない人からすると、これは実に驚くべき思想です。

どういうことか。

当時、悪名高かった「贖罪符によって救われることはない」、というのならわかります。事実、ルターの最初の問題提起はその点を問うていました。

しかしカルヴァンの思想はそうではない。贖罪符によって救われないのは当然のこととしながら、そもそも「善行を働いた」とか「悪業を重ねた」とかいうこと自体が、どうでもいいことだ、とカルバンは主張したわけです。

では私たちも、当時の人の気持ちを考えてみましょう。「努力が無駄だということ?嘘ですやん・・・」と感じますよね?ええ、おそらく100%の方がそう思うでしょう。私もこの「予定説」を知った時には、とんでもなくヘコみました。

でも違うのです。この「予定説」とは、私たち現代日本のビジネス・パーソンが抱えている閉塞感の正体を知る手助けをしてくれます。

社会、企業、組織が、なぜおかしいのか、なにがおかしいのか、この理不尽はどのような「問題」があるのか認識することができるようになります。

ではこの「予定説」、これはカルヴァンが生み出した独自の思想なのでしょうか。いや、そうではありません。カルヴァンは、ルター以上に「聖書」というテキストに決定的に向き合った人です。それなら「予定説」は聖書にはっきりと書かれていることなのか。うーん、確かに聖書を読むとカルヴァンの「予定説」として読める箇所があることがわかります。

例えば新約聖書の「ローマの神徒への手紙」第8章30節には、「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」と書かれている。

「エフェソ信徒への手紙」第1章4-5節を見てみると、「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、穢れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」とある。

「使徒言行録」第13章48節にも「異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人たちは皆、信仰に入った」と書いている。

というように、聖書を読んでいくと、このような「あらかじめ定められた」という言葉がキーワードのようにあっちこっちに出てきますから、 テキストを字義通りに読んでいけば「予定説」という考えは当然出てくることになるわけです。よくよく考えると当たり前なんですね。

ここで一点注意を促しておきたいのが、現在、予定説を認める教派は少数派であり、これをキリスト教の普遍的な教義だと考えるのは誤りだ、ということです。例えば本記事に何度も登場しているローマ・カトリック教会では、トリエント公会議において正式に「予定説は異端」とされていますし、他にも東方聖教会には全く受け入れられておらず、メソジストは予定説を批判するアルミニウス主義を採用しています。

ということで、ここから先は、この予定説が、主にプロテスタントを中心にしてみられる教義だという前提で読み進んでください。

あらためて考えてみたいのは、これほどまでに言ってみれば「御利益」のなさそうな教義が、進化論的に言えば「淘汰」されずに受け入れられ、やがて資本主義や民主主義の礎となっていったのはなぜなのか、という問題です。

予定説によれば、信仰を篤く持とうが、善行を多く重ねようが、その人が神によって救済されるかどうかは「関係ない」ということになります。

この考え方は、私たちが一般的に考える「動機」の認識と大きな矛盾を起こしますよね。「報酬」と「努力」の関係で言えば、「報酬」が約束されるから「努力」するための動機が生まれる、というのが通例の考え方でしょう。

ところが、予定説では「努力」は関係なく、あらかじめ「報酬」をもらう人と、もらえない人は決まっている、と考えます。

予定説と報酬の関係性

コンピューターのシステム全体を管理し、さまざまなアプリケーションソフトに共通する利用環境を提供する基本的なプログラムのことを、OS=オペレーションシステムと言いますね。OSは、コンピューターの動作を管理・制御することで、人間がコンピューターを使用できるようにする役割を担う。

では、これを私たち人間個人に置き換えれば、私たちには無意識的に「宗教というOS」が搭載されている、という捉え方ができると思います。

欧米人はその大半がカトリックOSですが、今回は「プロテスタント」がOSである人や国らと、「仏教と儒教」の影響を受けたOSを搭載している私たち日本人とを整理し、その違いを見ていきます。

因果応報=仏教 VS 予定説=プロテスタント

因果関係を、仏教VSカルヴァンの主張したプロテスタントとで比較してみると、予定説の異常さが際立ちます。これが私が冒頭で述べた「因果の誤謬」に関わる一つ目の重大なポイントです。

まず、仏教では因果律を重視します。全宇宙は因果律によって支配されており、釈迦の大吾はこの因果律の認識によっている。釈迦は全宇宙を支配する因果律を「ダルマ=法」と名付けました。当然のことながら釈迦以前から「ダルマ=法」は存在していた。つまり教祖とは別に絶対的に法は存在したわけで、だから「法前仏後」となるわけです。

予定説はこれをひっくり返します。神が全てを予定、つまり「予め、定め」ているわけで、ここに因果律は適用されません。だから、プロテスタンティズムは「神前法後」になるわけです。

私たち日本人にとって「因果応報」という考え方はしっくりきますが、これは仏教の影響が色濃いのであって、プロテスタンティズムでは必ずしもそうは考えないということです。

儒教=権力の集中 VS プロテスタント=権力の分散

では、次に「権力」という観点でも見てみましょう。儒教をOSとしている国と、プロテスタントを主としたOSとして搭載している国とを見てみます。

ChatGPTによって作成

上のグラフは、オランダの心理学者、ヘールト・ホフステードがIBMからの依頼を受けて「上位の年長者への反論が困難である度合い」を研究し、その結果を数値化して権力格差指標(PDI: Power Distance Index)としてまとめました。

ホフステードによると、権力格差とは「それぞれの社会において、権威を持たない立場にある人々が、既存の権威を受け入れ、それに従おうとする程度」と定義されます。

「儒教」が社会的価値観や行動規範に大きな影響を与える文化では、権力格差指数が高い傾向にあります。例えば、中国や台湾、韓国などの国々では、儒教の影響が強く、これらの国々では権力格差指数も高いです。日本もその一つで、割と権力格差の高い位置にいることが確認できます。

「儒教」というのは、年長者や上位者への尊敬と服従を重要視するため、この価値観は権力格差の指数が高くなる要因となりうると考えられます。社会の階層構造を支持し、権威に従順な態度を促すことで、権力の集中と階層的な関係が維持されてしまいます。日本人が当たり前にとる態度ですね。

一方、権力格差が低い国では、社会の不平等が最小限に抑えられ、権限が分散される傾向があります。こうした社会では、部下は上司が意思決定を行う前に意見を求められることを期待し、特権やステータスシンボルはあまり受け入れられません。

権力が集中している環境は、創造的なリスクを取ることが抑制され、イノベーションが阻害される可能性がある。逆に、権力が分散している場合、より多くの人々が意思決定に参加し、多様なアイデアが試されるため、イノベーションが促進されるでしょう。これが「因果の誤謬」を認識するための、二つ目の重要なポイントです。

以下はあくまで参考として、ぱっと思い浮かぶ限りの、北欧で有名なイノベーション企業をご紹介してみたいと思います。ランキング下位、権力格差が小さいエリアの企業ということです。ナイスな企業が多くないですか?

  1. デンマーク

    • Novo Nordisk:医薬品業界において、特に糖尿病治療薬で世界をリードしています。

    • Vestas Wind Systems:風力タービンの製造で知られ、持続可能なエネルギーソリューションを提供しています。

  2. スウェーデン

    • Spotify:音楽ストリーミングサービスであり、デジタル音楽革命の先駆者です。

    • IKEA:家具販売において革新的なビジネスモデルで世界的に有名です。

  3. フィンランド

    • Nokia:かつては携帯電話市場で世界をリードしていましたが、現在は通信インフラと技術の分野で活動しています。

    • Supercell:モバイルゲーム開発会社で、「クラッシュ・オブ・クラン」などで知られています。

  4. ノルウェー

    • Equinor:エネルギー会社で、石油、ガス、風力および太陽光発電に重点を置いています。

ということで、ここから見えてくる示唆は

因果応報=仏教 VS 予定説=プロテスタント

努力と報酬の非対称性(本記事サムネイル):
仏教というOSを無意識に搭載しているがゆえに、私たち日本人は努力が報酬につながる=因果応報ということを未だ信じ続けている。

儒教=権力の集中 VS プロテスタント=権力の分散

昇進や評価の「透明性」はあるか?(本記事のタイトル):
仏教とセットで儒教というOSも無意識搭載しているため、昇進や評価の透明性が重要と信じているが、実はそうではない。実際のところは権力による「予定説」的に予め決められている。つまり透明性などというものはほとんど存在せず、「年功序列」によって昇進や評価は決められる。

というものです。

よくクソ上司から「今年一年、良い成績を挙げてくれました。ご苦労様でした。しかし今年の昇進枠は、年次何年目の彼なんだ」。というような謎事象が頻発していますが、これは上で確認した通り「努力と報酬の非対称性」と「昇進や評価に透明性は存在しない、あるのは年功序列だ」ということで説明ができるでしょう。

いかがですか?やる気、失ってしまいました?

人は「予定された報酬」だけでは頑張れない

さて、「努力に関係なく、救済される人はあらかじめ決まっている」というルールの下では、人は頑張れないし無気力になってしまうように思うのですが、それは果たしてどうなのでしょうか。

「いや、そんなことはない。むしろまったく逆だ」と主張しているのが、マックス・ヴェーバーです。あの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の著者です。ヴェーバーは、まさに同著の中で「カルヴァン派の予定説が資本主義を発達させた」という論理を展開しています[1]。

救済にあずかれるかどうか全く不明であり、現世での善行も意味を持たないとすると、人々は虚無的な思想に陥るほかないように思われるでしょう。

「現世でどう生きようとも救済される者はあらかじめ決まっている」というのなら、「楽しいことだけして生きる」といって、快楽にふけるだけのような、ドラスティックな生き方をする人もいるはずです。もちろんそういう人もいたのでしょうが、しかし、ヴェーバーによると、「多くの人はそうはならなかった」と言います。

むしろ「全能の神に救われるようにあらかじめ定められた人間であれば、禁欲的に天命(ドイツ語で”Beruf”ですが、この単語には”職業”という意味もある)を務めて成功する人間だろう、と考え、『自分こそ救済されるべき選ばれた人間なんだ』という記しを得るために、だからこそ禁欲的に職業に励もうとした」というのがヴェーバーの論理です。

浅薄な合理主義に毒されているまさに私のような人々からすると、ヴェーバーの主張はちょっとした詭弁に聞こえるかもしれません[2]。

しかし、例えば学習心理学の世界では、すでに「予定された報酬」が動機付けを減退させることが明らかになっている、という事実を知れば、私たちの「動機」というのがシンプルな「努力→報酬」という因果関係によっては駆動されていないらしい、ということが示唆されます。

これはまた、現在の人事制度が、ほとんどの企業でうまく働いていない、むしろ茶番と言っていい状態になっていることについて考える、大きな契機をはらんでいると思います。

人事評価が前提としている「努力→結果→評価→報酬」という、一見すれば極めて合理的でシンプルな因果関係が、これだけ不協和を起こし、数十年かけても未だに洗練された形で運用できないのはなぜなのか。人事評価制度の設計では「頑張った人は報われる、成果を出した人は報われる」という考え方、つまり先述した「因果応報」を目指します。

しかし、では実際にその通りになっているのかというと、多くの人はこれを否定するのではないでしょうか。むしろ、人事評価の結果を云々する前に、昇進する人、出世する人は「あらかじめ決まっている」ように感じているはずです。

その上でなお、因果応報を否定する予定説が、資本主義の爆発的発展に寄与したのであるとするならば、私たちは何のために莫大な手間と費用をかけて「人事評価」というものを設計し、運用しているのでしょうか?

私たちが意識をしていないだけで、この茶番はすごく「ヤバイ」額のコストが無駄になってしまっているように思えてならないのですよね。

この「ヤバさ」の原因は、どこかの誰かの手に「権力の超集中」が起きているからなのか、あるいは権力が分散されているのに改善されないのはなぜなのか、改めて考えるべきなのかもしれません。


[1]
ヴェーバーの理論は、多くの議論を呼びましたし、一部では「間違いだ」という有識者の意見で結論が出たと言われています。しかし彼の論点はカルヴァン派の予定説が「勤勉さ」「禁欲的な生活」「職業への高い責任感」を生み出し、それが資本主義精神の発展に寄与したということです。このため、「カルヴァン派の予定説が資本主義を発達させた」というヴェーバーの論理を否定することは困難です。


[2]
贖罪符が問題視された当時、「金儲けは賤しいこと」とされていましたが、しかしカルヴァンは「稼ぐことは悪いことではない」と述べた人です。カルヴァンの思想は、金銭的な成功や富の獲得自体が悪いことではなく、それが正当な手段で得られるものである限り、神の祝福の一部と見做した。だからカルヴァン主義は、商業活動や投資に対して積極的な姿勢をとり、それが後の経済発展に寄与したとされているんです。だからこの前提を知っていれば、決してヴェーバーの主張は詭弁ではないし、上記の[1]も信憑性が増すのかな?と思います。


あまりに好きな「節」なので、大作になってしまいました。二週間ほど書いては消してを繰り替えしていました。照



僕の武器になった哲学/コミュリーマン

ステップ2.問題作成:なぜおかしいのか、なにがおかしいのか、この理不尽を「問題化」する。

キーコンセプト19「予定説」

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