見出し画像

【パラノとスキゾ】大丈夫、自分の「直感」を信じていい

時はパブル直前の1984年、ポスト構造主義 [1] の用語がその年の流行語大賞の銅賞に選ばれたことがあったそうです。

それは、フランスの哲学者である、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの共著『アンチ・オイディプス』の中で用いられた用語を、浅田彰氏が著書『逃走論』の中で紹介したことがきっかけだったそうなのですが、そのような書籍がトレンドになるなんて、現代を生きる私と同じY世代の人であれば「そんな時代もあったのお?」と、少しだけ驚かれるかもしれませんね。

パラノというのはパラノイア=偏執型を指し、スキゾはスキゾフレニア=分裂型を指します。

「何一つわかりません!」
「何語ですか?」
「は?」

はい、そう仰るのでしょう?

私と同じ教養の無いどころか皆無な人々(罵詈雑言を浴びせてくださいごめんなさい)のために、少し解説を付しておきましょう。

そもそもドゥルーズとガタリは、精神分析、哲学、政治、社会批評において革新的とも賞される理論を展開したわけですが、彼らの理論の中心にある概念の一つが「パラノ=偏執」と「スキゾ=分裂」である、と、まずはこうご理解いただければ良いと思います。

「パラノ」というのは一般的に「統合と秩序の過程」を指しています。なんだかわかりそうでわかりませんね。ドルゥーズらは主に、資本主義社会における欲望の流れと、機械的な構造を維持するための枠組みとして捉えて、それを「パラノイア的」と表現しました。

それでは「パラノ」というのは具体的に何に偏執するのでしょうか?それは「アイデンティティ」ということになります。パラノ型の人は、例えば「〇〇大学を卒業して、〇〇商事に勤めていて、〇〇ヒルズに住んでいる自分」という自分のアイデンティティに固執して、このアイデンティティをより新しい特徴に合わせて進化させます。

極端な言い方に変えてしてしまえば、「トレンドや地位財に異常に執着してやまないエリート」というイメージ像がわかりやすいと思うのですが、要するに「一流大学を卒業し、地位と名誉と高給が得られる企業に就職して出世し続け、煌びやかなパートナーを得て良い暮らしをする」ということです。

そういうわけなので、パラノ型の人は他者から見るといわゆる一貫性のある「わかりやすい人格」「わかりやすい人生」ということになります。

一方で「スキゾ」は、「解体と流動性の過程」を示すとされています。彼らの考えでは、スキゾは固定された身元、統一されたアイデンティティ、そして抑圧的な社会的秩序に対する反抗として機能すると考えます。スキゾは、欲望の流れるままに規制する社会的・心理的構造から逃れ、自己を自由に流動させるという。

なんだか「すんごいワガママ」と感じられてしまいそうですが、これは個人の経験が、階層的な権力構造や制限された表現形式に挑戦し、それらを超える可能性を秘めていると唱えています。スキゾは、社会や個人に内在する創造的で革新的な力の象徴とされ、固定化されたアイデンティティや秩序に縛られない自由な存在の可能性を探求するものとされているのです。

ドゥルーズは別の著書『千のプラトー』において、西洋哲学が長らくベースとした起点をもとにして、 「ツリー」型に枝葉を整合的に広げていくような論理構造を一方におき、 その対比として、起点を持たず無秩序に拡散していく「根っこ」の概念を持ち出し、これをリゾームと名付けました。

この「ツリー」と「リゾーム」という対比構造に、「パラノ」と「スキゾ」を当てはめていきましょう。

まずは「パラノ」です。これは当然のことながら「パラノはツリー」に対応することになります。「ツリー」には幹という中心があります。これは伝統的な組織体系、特に中心から周縁へと拡張していくような階層的、二元論的な構造を象徴しています。実にわかりやすいイメージですね。

では一方の「スキゾがリゾーム」に該当すると考えるのであれば、何が「分裂」「拡散」するのか。実はこちらもまた「アイデンティティ」ということになります。スキゾ型の人は、固定的なアイデンティティに縛られることがありません。自分の美意識や直感の赴くままに自由に運動し、その時点での判断・行動・発言と過去のアイデンティティや自己イメージとの整合性についてはこだわりません。

偶発的に訪れる変化や機会に関して言えば、その時々の直感や嗅覚に従って受け入れられたり受け入れられなかったりするだけで、過去に蓄積したアイデンティティとの整合性は顧みられません。ということなので、スキゾ的な人というのは、一見すると「奔放で何を考えているのかよくわからない人」と、見られてしまうのかもしれません。

ドゥルーズはもともと数学における微分の概念を応用して、「差異」の研究をした哲学者なのですが、この「パラノとスキゾ」という対比を数学的なニュアンスで表現すれば、「パラノ」は積分、「スキゾ」は微分ということになります。

「パラノ」を「積分」と考える場合、積分は個別の値や点を全体として集積し、累積する操作です。これは、様々な要素やデータを統合して全体の構造やパターンを把握するプロセスによく似ています。つまり、分散した情報やデータを一つの統一された枠組みや理論に統合する作業に相当します。

一方で、「スキゾ」を「微分」と考える場合、微分は関数の局所的な変化率や傾きを捉える操作です。これは、全体の中の個々の差異や瞬間的な変化に焦点を当てるプロセスに類似しています。スキゾ的思考は、統一性や全体性から逸脱し、多様性や変化、個々の要素の独自性や関係性に注目します。要するに、大きな枠組みや一般化から逸脱し、瞬間瞬間の変化や独自性を追求する探究に相当すると考えることができます。

さて、この「パラノとスキゾ」というコンセプトが、なぜ、今重要なのか、おそらく私自身による解説よりも、次に挙げる浅田氏の『逃走論』からの抜粋を読んでいただければわかると思います。

さて、もっとも基本的なパラノ型の行動といえば、《住む》ってことだろう。

一家をかまえ、そこをセンターとしてテリトリーの拡大を図ると同時に、家財をうずたかく蓄積する。妻を性的に独占し、産ませた子どもの尻をたたいて、一家の発展をめざす。

このゲームは途中でおりたら負けだ。《やめられない、とまらない》でもって、どうしてもパラノ型になっちゃうワケね。これはビョーキといえばビョーキなんだけど、近代文明というものはまさしくこうしたパラノ・ドライヴによってここまで成長してきたのだった。

そしてまた、成長が続いている限りは、楽じゃないといってもそれなりに安定していられる、というワケ。

ところが、事態が急変したりすると、パラノ型ってのは弱いんだなァ。ヘタをすると、砦にたてこもって奮戦したあげく玉砕、なんてことにもなりかねない。

ここで《住むヒト》にかわって登場するのが《逃げるヒト》なのだ。コイツは何かあったら逃げる。ふみとどまったりせず、とにかく逃げる。そのためには身軽じゃないといけない。家というセンターをもたず、たえずボーダーに身をおく。家財をためこんだり、家長として妻子に君臨したりはしてられないから、そのつどありあわせのもので用を足し、子種も適当にバラまいておいてあとは運まかせ。たよりになるのは、事態の変化をとらえるセンス、偶然に対する勘、それだけだ。とくると、これはまさしくスキゾ型、というワケね。

浅田彰『逃走論――スキゾ・キッズの冒険』

子種云々の話はともかくとして、浅田氏の指摘には二つの重要なポイントがあると思います。

浅田氏が指摘する点の一つ目は「パラノ型は環境変化に弱い」という指摘です。現在、企業や事業の寿命はどんどん短くなっています。この状況を個人のアイデンティティ形成と紐づけて考えてみるとどうなるか。職業というのはアイデンティティ形成の最も重要な要素ですから、一つのアイデンティティに縛られるということは、一つの職業に縛られるということになります。

一方で、会社や事業の寿命はどんどん短くなっている。この二つを掛け合わせると、すなわち「アイデンティティに固執するのは危険である」という結論が得られます。

堀江貴文氏は著書『多動力』において「コツコツやる時代は終わり」であり、であるがゆえに「飽きたらすぐ止めろ」と訴えていますが、これも「パラノ」より「スキゾ」が重要であり、「ツリー」よりも「リゾーム」が大事だという指摘として読み替えることができます。

私たちは「一貫性がある」「ブレない」「この道ウン十年」みたいなことを、手放しで賞賛するおめでたいところがありますが、しかし、そのような価値観に縛られて、自分のアイデンティティをパラノ的に固持しようとすることは自殺行為になりかねません。

そして、ポイントの二つ目が「逃げる」という点です。浅田氏は「パラノ型」を「住むヒト」と定義した上で、「スキゾ型」を「逃げるヒト」と定義しています。

「住むヒト」に対置させるのであれば、「移住するヒト」とか「移動するヒト」という定義の仕方もあるのに、そうはせずに「逃げるヒト」という定義を用いている。ここは非常に鋭いと思います。

「逃げる」というのは、別に明確な行き先が決まっていなくとも、とにもかくにも「ここから逃げる」ということです。このニュアンス、つまり「必ずしも行き先がはっきりしているわけではないんだけど、「ここはどうにもヤバそうだ、とにかく動こう」というマインドセットが、スキゾ型だと言っているわけですね。

よくキャリア論の世界では「自分が何をやりたいか、何が得意なのかを考えろ」とよく言われます。私はこんなことを考えるのはほとんど「無意味」だと思っていて、結局のところ、仕事は実際にやってみないと「面白いか、得意か」なんてわかりません。「何がしたいのか?」などとモジモジ考えていたら、偶然にやってきたはずのチャンスすら逃してしまう恐れがあります。

つまり、大事なのは行き先など決めていないままに、「どうもヤバそうだと思ったら、さっさと逃げろ」ということです。

もっと目を凝らし、耳を澄まして周りで何が起きているのかを見極める。先に挙げた浅田氏の抜粋では「たよりになるのは事態の変化を捉えるセンス、偶然に対する勘、それだけだ」とあります。周囲が「まだ大丈夫」と言っていても、自分が「危ない!」と直感したのならすぐに逃げる。

ここで重要になってくるのが「危ないと感じるアンテナの感度」と、「逃げる決断をするための勇気」ということになります。往々にして勘違いされていますが、「逃げる」のは「勇気がない」からではありません。逆に「勇気がある」からこそ逃げられるんですね。

以下の二つのデータをご覧ください。これは1978年から現在のマイナビが実施している「大学生就職企業人気ランキング」ですが、上が20年前(当時の私はだいたい二十歳くらい)、下が最新2024年のものです。

2004年3月10日付
2023年4月12日付

あまり多くを語るつもりはないのですが、左の文系ランキングを見てみると、2004年は1位から3位までを旅行業界三社が独占していましたが、COVID-19の影響を受けて下火に、さすがのJTBは前年19位からのジャンプアップをしたものの、JALやANAは未だに完全回復には至りません。

ちなみに2004年9位の広告代理店最大手の電通、10位の放送最大手フジテレビジョンは、2024年においては100位の中にも入らない「圏外」扱いです。これは恐らく今日のメディア・通信環境の大きな変化を受け、最も将来の不確実性が高い業種の一つとなったと見做されたのではないでしょうか。

おそらく今日の就職人気ランキング上位の花形産業の少なくない数もまた、20年後には衰退産業に数えられることになるでしょう。誰もが羨むような会社に入社すれば、その会社に所属している自分をアイデンティティの柱にするのは避けられないことです。しかし、その会社が「花形」のままでいられる期間はどんどん短くなっている。

自分のアイデンティティの拠り所が、もはや人が羨むような「花形」ではなくなったとき、それをさっさと捨て去って、なお自分というものを「崩壊させずに分裂させておく」ことができるか。まさに「パラノからスキゾ」への転換が求められているわけです。

ここで留意しておかなければならないのは、日本の社会では未だに一箇所に踏みとどまって努力し続けるパラノ型を礼賛し、次から次へと飽きっぽく変位転遷していくスキゾ型を卑下する傾向が強い、ということです。

考えてみれば、例えばシリコンバレーの職業観などは典型的なスキゾ型なので、こういった「パラノ礼賛、スキゾ卑下」の職業観が日本のイノベーションを停滞させる要因の一つとなっているのでしょう。

この社会的な価値観が「スキゾ型」の戦略を採用しようというとき、大きな心理的ブレーキとして働く可能性があります。だからこそ、逃げるには「勇気」が必要なのです。世間的な風評を気にして沈没しかけている船の中でモジモジとしていたら、 それこそ人生を台無しにしかねません。

他の多くの人が「一度この船に乗った以上、最後まで頑張るんだ」と息巻いているなか、「僕はこの船と心中するつもりはありません。お先に失礼します」と言って逃げるとき、どれだけの勇気がいるだろうかと想像してください。

パラノとスキゾを対比させてみれば、後者は前者より軽薄で軟弱な生き切り様に思えるかもしれません。しかし全くそうではない。むしろ勇気と強度を持たない人こそ、現在の世界ではパラノ型を志向し、それらを持つ人だけがスキゾ型の人生をしたたかに歩むことができる、ということです。


既得権の無効化

個人のモビリティが高まり、どんどん「逃げる」ようになれば、労働市場の流動性が高まり、無意味なクソ仕事は残存できなくなり、傍若無人な振る舞いを繰り返すオールドタイプの権力も維持できなくなる。

note:なぜ「逃げる」ことが大事なのか?/山口周

モビリティはそのまま「移動する」「動く」「逃げる」ことを意味します。

この個人のモビリティが高まると、次第に労働市場の流動性が高まります。労働市場の流動性が高まると、既存の権力構造に変化が生じます。

従業員が容易に職を変えることができる環境では、従業員を不当に扱うオールドタイプの権力者は、優秀な人材を維持することが難しくなります。従って、傍若無人な振る舞いを繰り返す権力者は、「自らの行動を改める」か「影響力を失うか」のどちらかを迫られるでしょう。

また、労働市場の流動性が高まることで、労働者自身はより簡単に職を変えることができるようになり、自分にとって有意義な仕事を探求する「機会」が増えます。これにより、企業は人材を引き付け、保持するために、より良い労働条件、職場環境、そして仕事の意義を提供する必要に迫られるでしょう。

結果として、多くのビジネスパーソンにとって無意味と感じられる「クソ仕事」が、市場から淘汰される可能性が高まることになるのです。




ボーナス

もしも仮に本記事をお読みの方が「社内で影響力のある方」であれば、私はM&Aを「する」あるいは「される」このどちらも企業の「自浄作用」を高める有効な手段でると、提言をさせていただきたい。ここで私が述べたいこと=趣旨としては「オールドタイプへの退場勧告」ということです。

「なに言ってんだ?」
「できるわけないだろう?」

ええ、当然ながら承知の上です。

M&Aの過程では、財務諸表、業務プロセス、人事管理など、企業運営のあらゆる側面が詳細に開かれ、検討されます。これにより、ブラックボックス化されていたガバナンスが第三者の目に晒され、組織内の非効率や問題点が明らかになります。

つまり「透明性の向上」と「改善の機会」が提供されるわけです。

他にも、合併によって統合された企業文化の影響を受けて、旧来のオールドタイプの権力構造や働き方が直接的に見直されることがあります。新しい経営陣は、より柔軟で革新的な働き方を促進し、従業員にとって有意義な仕事の創出につながる可能性があります。

そして、M&Aによって生じるシナジー効果を最大化するために、企業は非効率な業務プロセスや冗長な職位を削減する傾向が現れるでしょう。このプロセスでもってして「クソ仕事」が削減され、より生産的な仕事にリソースが再配分される可能性があります。

社内で影響力を持つあなたには、このような変化を恐れず、むしろ積極的に取り組むことで、企業と従業員「双方の未来」をより良いものに変えるチャンスがあると、私は考えています。



[1]
「ポスト構造主義」は、「構造主義の批判」として発展しました。構造主義者は言語や文化的現象を決定的な構造によって理解しようとしましたが、ポスト構造主義者はそのような固定された構造を疑問視し、人間にとっての「意味」や「真実」という生きるにおいて本質的に重要と考えられるものは、常に流動的であり、その時々の文脈や解釈に依存すると主張します。



僕の武器になった哲学/コミュリーマン

ステップ1.現状認識:この世界を「なにかおかしい」「なにか理不尽だ」と感じ、それを変えたいと思っている人へ

キーコンセプ11「パラノとスキゾ」

もしよろしければ、サポートをお願いいたします^^いただいたサポートは作家の活動費にさせていただき、よりいっそう皆さんが「なりたい自分を見つける」「なりたい自分になる」お手伝いをさせせていただきます♡