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出産で神戸を離れた私 受験で津波を知らなかったモネ 被災体験の欠落が産む罪悪感

1月17日午前5時46分。どこにいても神戸に向かって黙祷する。
 
私は1995年1月17日のその時刻を神戸市中央区楠町の自宅で迎えた。当時、妊娠7ヶ月だった。古いマンションの6階に住んでいた。家財はすべて倒れ、家の中はぐしゃぐしゃになった。観音開きの扉付きの重たい本棚が倒れ、本棚の中に入っていた小さな仏像が外に飛び出て、なぜか本棚の底に突き刺さっていた。そのぐらい、何がどう動いたのかわからないほど攪拌された。
 
外に出ると向かいの自転車屋はぺしゃんこに潰れていた。コンタクトも入れておらず、ルームスリッパのまま、医師会の休日診療所に人が集まる様子を眺めていた。休日診療所の電動シャッターが停電で開かない。「早く開けてくれ」。けがをした人たちが殺気立ち始めていた。消防車のサイレンが遠くに聞こえ始めた。
 
 
近くに支局があった産経新聞の軽トラが通りかかった。
「これから三宮方面に向かうんやけど」という。荷台に載せてもらって、中央区浪花町にあった朝日新聞の神戸支局に向かった。道中で高速道路の高架が落ちているのを見た。薬剤師会館の建物は竜巻でえぐられたみたいにらせん状に壊れていた。
その日は支局の中で、原稿の受け作業に徹し、夜に自宅に戻った。長田区の火災で西の空が真っ赤だった。「火事をみるとアザのある子が生まれるというけど、そしたら、この子はきっとアザだらけやな」とお腹をさすりながら考えていたのを覚えている。翌日には近くの中学校の避難所に行った。まだ物資などは届いておらず、カチカチのおにぎりを一つもらえるかどうか。体育館の床は冷たくて、妊婦には耐えられなかった。足先が冷えると、お腹がぐーっと張るのだ。天井が落ちた自宅に戻って休んだ。
 
19日、通っていた産婦人科も全壊とわかり、神戸で水道が使えるようになるのも数ヶ月後という見通しが示された。上司が「ここで産気づかれたら困るんやから、避難して」と言った。20日に神戸を離れた。北神急行で三田まで出て、広野まで歩き、福知山経由で京都に向かった。避難者で戦後の買い出し列車のようにぎゅうぎゅうだった。
 
4月に実家のある神奈川県で出産した。それまでも毎日、テレビで神戸の様子を追った。オウム真理教関連で神戸のニュースが減ると、苦しくなった。「私は神戸を捨てたんや。大変なことをしてしまった」と泣いてばかりいた。少しでも神戸に近いところで過ごしたいと、5月には京都まで戻った。震災前に入居申し込みをしていた神戸市東灘区のマンションが数ヶ月遅れで完成し、やっと神戸に戻ったのはその年の9月のことだ。
 
新聞記者としての震災取材は、このとき神戸を留守にしたことへの贖罪のような気持ちで取り組んできたのだと思う。私がいなかった8ヶ月間の話を、後から聞いて回った。「震災の年は、気がついたら桜が咲いとった。わしらも必死でよう覚えとらんのよ」とかばうように言ってくれる人が何人もいた。それは真実かもしれない。でも、私には拭えない罪悪感が今もある。子どもを産むためなんだから、仕方がない。命より大事なものはない。そう言われても、あのとき神戸を離れたことを「是」とできない自分がいる。
 
3年前のNHK朝ドラ「おかえりモネ」の主人公モネは、東日本大震災の当日、高校受験のため、仙台にいた。翌日に気仙沼の自宅に帰り、津波で一変した光景を目にした。津波が襲ったそのとき、現場にいなかったという「体験の不在」がずっとモネを苦しめてきた。幼なじみや家族と、体験を分かち合うことができない。その苦しみは「当日」と「後日」の違いはあれ、よくわかるような気がした。
 
 

震災29年目の神戸東遊園地。ルミナリエの明かりの向こうに関西電力のビルが「1・17」の文字を灯している=神戸市中央区、矢野宏さん撮影

コミュニティーや家族を分断しないで


2024年1月14日にオンラインで開かれた「1・17フォーラム」で、阪神大震災以降の災害対応に尽力してきた神戸大学名誉教授の室崎益輝さんが、能登半島地震の2次避難について「コミュニティーや家族を分断しないようにしてほしい」と訴えた。阪神大震災では障害者や高齢者を優先的に動かした結果、避難所、仮設住宅、災害復興住宅と居場所を転々とするたびに、元のコミュニティーが壊れ、孤独死が相次いだ。その教訓を踏まえての提案だ。
 
1月17日の朝日新聞朝刊1面の見出しは「能登 2次避難まだ7%」。
 
「まだ」という言葉に、あおられ、急かされるような気持ちになる。現地では中学生だけ、高校生だけ、高齢者だけ、という2次避難の形態が模索されている。たしかに短期的に冬場の過酷な状況を脱し、当座の生活を立て直すことは、とりわけ子どもと高齢者には必要なのだろう。だけど、同じ体験をした家族や近隣が身を寄せ合うこと、同じ復旧の過程を分かち合うことが、その後の心や体の安定につながることもある。どうか、コミュニティーの中で「私だけが知らない」という空白の時間を持つことの傷についても、思いをはせてほしい。
 
能登半島地震の被災地の方たちが、納得がいくまで2次避難について説明が得られますように。そして、家族やコミュニティーがばらばらにならないで避難ができますようにと、願ってやまない。
            (阿久沢悦子)

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