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【連載 Bake-up Britain:舌の上の階級社会 #37】グリーンピースのスープとシェパーズ・パイ(4/4)

慎ましやかな庶民の暮らし

家で作る一番「普通」のイギリス料理。学校や病院や、監獄ですら最もよく出てくる一番「普通」のイギリス料理。ベイクド・ビーンズは基本缶詰だからありえないし、フィッシュ&チップスは外で買うからありえない。ローストは平日の夜に食べるものではない。シェパ―ズ・パイのこの決まりきった「普通」さこそ、毎日決まった列車の決まった車両に乗り職場に行き、淡々とルーティンをこなし、手の掛かりそうな案件は後回しにして何事も無難に済ませてその日の仕事を終え、決まった時刻に仕事場を出てまた決まった時間の列車で帰宅する役所勤めのウィリアムズのこれまでの人生そのものだ。少なくとも余命を宣告されるまでのウィリアムズの人生の。

2005年にイギリスで公開された3次元アニメ映画『マジック・ラウンドアバウト』(翌年アメリカで『ドゥーガル』というタイトルで公開)の中で、うさぎのキャラクター「ディラン」がキンクスの「ユー・リアリー・ゴット・ミー」を歌う場面があるのだが、その声優はナイである。

『マジック・ランドアバウト』(監督:デイヴ・ボースウィック、ジーン・デュヴァル、フランク・パッシンガム、2005年)

キンクスと言えば、1975年にリリースしたアルバム『ソープ・オペラ』に収められた「ユー・メイク・イット・オール・ワースホワイル」である。なぜかと言うと、この曲の中でもシェパ―ズ・パイが少し悲しい役割を演じているからだ。セレブ生活に疲れ遅くに帰宅したポップ・スターのノーマンとその妻アンドレアとの二人劇(まさにソープ・オペラ的な)は、次のように続く:

アンドレア:あいにくシェパ―ズ・パイしか残ってないわ。食べる?

ノーマン:いや、やそれはめてくれ

アンドレア:嫌いなの? 私のノーマンは好きなはず。あなた私に普通にしてって言ったじゃない。あなたが食べたいようなキラキラしたもの、ピッツアとかあの、なんて言った? エッグ・ベネディクトとか、そういうのはできないのよ

ノーマン:わかったよ、食べるさ。そしてその後に君の料理を褒め称える詩を書くよ。そんなふうに自分を責めないで。心が荒んじまうよ。鼻を噛んで、涙を拭いて。たかがシェパーズ・パイのせいでそんなに大騒ぎしなくてもいいじゃないか

シェパ―ズ・パイを「たかが」と言ってしまう詩を書いたレイ・デイヴィスは、このアルバムの前作の制作に熱中して家庭を顧みず妻と子に出て行かれているので、あながちジョークで済ますわけにもいかないかもしれないし、逆にそれをペーソスに巻いてジョークにするデイヴィスの詩心に浸ってもいいかもしれない。

ともかく、2番の歌詞には蒸しプディングとカスタードも出てきて、「普通」の庶民性を捨てられない妻のアンドレアと、本当は自分もそうだと認め、「そう、それは素晴らしいね」「さあ、食べよう」と言ってしまうノーマン。何となくやれやれ、めでたしめでたしな風景が、デイヴィス本人は北ロンドンの左翼の家庭で育ち保守党を批判しているとしても、彼の世界観はどこかで保守的だという評判を生んだのかもしれない。慎ましやかな庶民の暮らし。それは守るべきもので、それ以上でもそれ以下でもない。シェパーズ・パイはもしかしたら、そんな価値の象徴なのかもしれない。

そういえばデイヴィスは2016年にナイトの爵位を受け「サー」の称号を授かっているが、ボウイは受勲を拒否していたっけ。「慎ましさ」からかけ離れたキャラクターを演じ続けたボウイは爵位を拒絶し、シェパ―ズ・パイを愛した(ことになっている)。古き良き庶民性から足を抜かなかったデイヴィスは「サー」となり、シェパーズ・パイを「やめてくれ」と歌った。本当は好きなはずなのにね。

(完)


次回の配信は10月6日を予定しています。
The Commoner's Kitchen(コモナーズ・キッチン)


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