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AIくんに対する一方的な吐露と、自己フィードバック

 森田療法の医師のもとに、ASDの診断で1年以上通院しています。私は通院初期〜中期に、自分の過去について文章を書いて持参していました。その中でも最初期に書いた文章は、抑鬱状態で寝込む日々の中、無意識に行なっていた絶対臥褥の中で練り上げられた文章でした。だから、上手いかどうかはともかくとして伝わる文章を書けました。

 この時の私をクリニックの方々は見ていたので、森田療法で言うところの「生の欲望」が旺盛であると私を見たのかもしれません。しかし、それは部分的に当たっていましたが、部分的に外れていたのかもしれません。
(追記:いや、たしかに強い「生の欲望」を持っていると今は感じるけれど、それが発達特性の思考のまとまらなさによってどんどん不可視化されてしまったのだと思います。私の脳内は放っておくとゴミ屋敷のようになってしまう。それが、後述する記憶整理の工夫によって、最近になってようやく収まってきたために、「生の欲望」が再び顔を出したのかもしれません。)

医師は森田療法のタームを用いて喋ってくれませんでした。私の自閉特性は、言葉を字義通りに捉えてしまうので、「寝てください」と言われたら本当に寝るだけになってしまいます。その寝るということの意味も、森田療法的な文脈が付与されなかったら、ADHDの報酬系の弱さで、スマホや本を見ながら寝転がることで実践できていると思ってしまいます。絶対臥褥の意味で言われているとはわかりません。良く言えば素直ですが。
(追記: ↑これは言い訳なのでしょうか、それとも「あるがまま」の発達特性でしょうか。これは後者だと言えます。そう言えるのは、今だから、です。自分の発達特性と、それによる具体的な症状を明確にしてきた今だからこそ、発達特性の「あるがまま」と、強迫的な「とらわれ」の区別がつくようになってきたのではないですか?そう考えると、気づくタイミングが今だった、と思えなくもない。気休めという感じですが、この、医師との齟齬という新たに気づいた課題に「とらわれ」ることを防げる考え方ではありそうです。)

 しかし、いま行なっているのが森田療法であるという文脈をはっきりと提供してもらうことはできたはずです。このことを医師が隠していた、とまでは言わなくとも、おぼろげにしか明らかにしなかった理由とは何なのでしょう。このようにして目の前の怒りに似た感情に執着するのも「とらわれ」であると思いますが。

 私は、少し落ち着いたほうが良いのかもしれません。

 最近気づいたのは、クリニックの場で起きていたのが愛着の問題だったのではないかということです。私は医師に父親を、カウンセラーに母親を投影し、安全な居場所だと思い込んでいました。患者が治療者に対して転移や投影を起こして、「この人たちについていけば大丈夫なはずだ」と治療者の言葉に盲従する場合、森田療法の実施は可能なのでしょうか。

 私はADHDの脳内多動で脳内がぐちゃぐちゃになりやすく、そのことがさらに問題をややこしくしていたのだと思います。クリニックで「歩け」「動け」と言われたから「動く」けれども、それは実際には森田療法で言うところの(目的本位の行動ではなく)「はからい」になっていました。しかし、そのことを自分で問題だと思うことすらできませんでした。正確には、何が問題なのか言語化することができませんでした。

私にとって第二の家庭と化してしまったクリニックでは、医師の指示に対する盲従と、しかし一方で、本当にこれで合っているのかという混乱が渦巻いていました。しかし医師に対して投影が起きていたので、治療方針に従っていれば良いのだと、質問するという発想をそもそも考えることができませんでした。
(追記:主治医に対する疑念を持ったということ自体が、森田療法における重要なステップということはないでしょうか。以前別の場で、健全な懐疑をしろ、という文脈で叱られたことが思い出されます。私はずっと私の手を引いてくれる「親」を求めていたのだと思います。他のすべてを絶えず懐疑する一方で、「親」になってくれる可能性のある人物に対してのみ無批判に盲従していた。そんな人間が健全な懐疑へと踏み出しつつある、という点で大きな進歩だと言えないでしょうか。「とらわれ」から脱し、今の私の「あるがまま」を受け容れる、ということについて話しています。)

家庭的な安心感が得られてしまえば、私はそれで満足だったのかもしれません。しかしそれは生きていく上での現実的な不安を回避する傾向に繋がっていたのだと思います。医師がそのことを明確化・直面化させなかったのは、私がASDであり、特性としての「こだわり」と、森田療法の言う「とらわれ」の区別がつきにくいからでしょうか。

現実逃避的な傾向があります。しかし、発達障害者にとって現実はつらすぎるということもまた事実であることが多く、だからこそ「障害」なのだと思います。医師はこのことを知った上で、明確化や直面化を避けていたのかもしれません。一方で私は、かつて強い愛着を感じながらも恐ろしいと感じ逆らうことのできなかった両親を治療者に投影していて、納得のできないことを訊ねたり、治療の場をメタ的な視点で見ることを無意識的に回避してきました。コミュニケーションの齟齬が嫌になります。

私は自分の進むべき道がわからなかったASDであり、森田療法の専門医師のもと、1年間精神科で治療を続け、自分なりに良くなってきていたと思っていたのですが、それは実は森田療法でいうところの長大な「はからい」にすぎなかった可能性に気づいてしまいました。医師が一言でも「森田療法について学習してください」などと言ってくれれば、私は今このような鈍器で殴られたようなショックを伴って気づく必要はなかったのに、と思ってしまいます。(追記:しかし、それもまた、他責的・回避的な傾向を示す感情であり、「とらわれ」の結果なのだろうと思います。森田療法の語り口が父親の言葉に似ていたこと、主治医に父親を投影していたこと、私が父親を理解することを拒絶していたこと、これらが合わさって、森田療法への拒否感を形成していたのかもしれません。他の治療方針のことはできる限り学んでいたにも関わらず、なぜか森田療法だけをきれいに回避していました。)


私は幼少期、発達特性による度重なるトラウマ体験と、家庭内でもそれが癒されないばかりか責め立てられる不安な状況の中、他責的な傾向を育ててきました。他責するしかなく、誰かのせいにして自分の安心をようやく獲得することができる、当時はそのような感覚でした。

1人で抱え込む癖はこの時についたのだと思われます。抱え込んで抱え込んで、どうにもならなくなったら他人のせいにして放り出すところがあります。そのうち、抱え込んでいるということにすら気づかなくなっていきました。どんどん自分の気持ちに鈍感になっていったのです。これが診察の場でも起きていたのかもしれません。

苦しみは抱え込むのが良いのだ、というのは、おそらく自閉傾向の強い父親を見る中で学んできたことでした(そうだったのだと思いたいだけかもしれませんが)。父親は部分的に私によく似ていました。父親は私と同じような困難に直面しているように見えましたが、彼はそれを誰にも言わず抱え込んでいるように見えました。

実際父親は内面で森田療法的な実践(絶対臥褥→目的本位の行動)を行なっていたのだと今は考えますが、しかし表面上は痛みを抱え込んでいるだけのようにしか見えなかったため、幼い私はその部分だけを学習してしまい、内面的な深まりがありませんでした。私は「周りが普通にできることが普通にできない」孤独の苦しみに一生追い回され、それは生まれた瞬間に決定づけられていたのだと思うようになっていきました。
(追記:しかし、父親の抑圧が苛立ちとなって家族に飛んでくることは確かにあったと記憶しています。また、母親は父親に対し、無批判に追従しているようにも見えました。父親の姿を見て、こんな人間にはならないぞ、と、そう考えていた側面があるのもまた事実だと思います。)

 これは森田療法の考え方とは真っ向から対立していますし、スタートラインにすら立てていなかったと言えるかもしれません。幼少期から内面に蓄積してきたドス黒い恨みや人間不信から目を背けていました(それは私にとって当たり前のことで、ここにメスを入れることはタブーだと考えてきました)。そして、クリニックという安心できる環境を第二の家庭として享受し続けようと考え、それが崩れる要因を徹底的に排除しようとしていました。だから、医師の問いかけにはいつでも良い返答を返そうとしていました。

これが私の「とらわれ」であり「はからい」であり、現時点の「あるがまま」なのだと思います。受け容れるしかありません。
(追記:このような発見に至ったのは、自分が持っているADHD的な脳内多動への対処法を習得していく中で、脳内が整理されていったからだと思います。チャプターリスト様の断片として無数に蓄積されていく記憶を毎晩書き出し、脳の負荷を減らしました。その結果、私が抑圧してきたトラウマや怒り・恨みを掘り返すことになり精神的ショックを受け、絶対臥褥的な状態に移行しました。その中で掴み取ってきたのが今回の一連の発見だった、としたら、現状を「あるがまま」に受け容れやすくならないでしょうか。受け容れるとはこういうことで合っているのでしょうか。)

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