回顧録第10話 【編集長】
【不安の種】
僕とA君と小林翔の席は、少年サンデー編集部の隣にぽつんとあった。2014年、裏サンデー編集部がついに始動したが、編集部員は原初の3人だけになってしまった。サンデー内部の人間にはもう手伝ってもらうことができなくなり、僕は不安になった。
突然編集長になったのだ。小学館は出世が遅く、普通は編集長になるのは最短でも40歳を超えてからだ。しかも副編集長を経験して、マネジメントを覚えてからゆっくりと昇進するものだ。しかし、僕は33歳で編集長を通達された。最年少編集長と周りは持て囃したが、とても不安だった。サイトはうまくいっていたが、編集部には3人しかいない。作品数が少なすぎる。僕自身も担当を持たなければならなかった。
実は「マギ」以来、担当編集者としての僕はポンコツだった。燃え尽き症候群が治らなかったのだ。「デジコン」を軌道に乗せられなかったのは、僕の商業漫画アレルギーが治っていなかった証拠だ。そして「ゼクレアトル」も同じだ。「モブサイコ」のように最初から純度100%のネームを持ってくる作品なら担当できたが、作者と打ち合わせしながら作る作品は苦手になっていた。
自分のアイデアと作者のアイデアのキメラのようなネームを見ると、商業漫画アレルギーが発動してしまった。それならもう自分でシナリオを全部書いてしまうしかなかったが、家庭を失った理由がそれだったので、それは二度とやるまいと思っていた。それをやる時は会社を辞める時だ。それでもなんとか「勇者が死んだ」を立ち上げたが、1巻までしか担当できず、すぐに引き継ぐのが限界だった。
唯一「懲役339年」という作品だけは、担当編集として頑張れた。圧倒的にすごい漫画が作れたと思ったが、当時は売れなかった。やはり何かが錆びついていたのだ。小林翔は「たくのみ」や「灼熱カバディ」など、のちにヒット作となる作品を立ち上げてくれた。A君も運営を頑張ってくれたが、僕は不安でたまらなかった。サンデーという巨大な壁に守られて調子に乗っていた僕は、編集長になる覚悟がまだできていなかったのだ。そんな僕に声をかけてくれたのが、市原武法氏、ゲッサン編集長だった。
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