見出し画像

「最適な解」よりも「満足できる解」を求めよ

「社会」に関するキーコンセプト
「いま、何が起きているのか」を理解するために

28:神の見えざる手

「神の見えざる手」とは市場(いちば)による調整機能のことです。市場で商いを続けるためには、適正な価格で販売しなければなりません。つまり、市場には「高すぎる価格」や「低すぎる価格」を調整させる圧力が働くわけです。最終的に落ち着いた価格が理論的に最適=オプティマルなものであるかどうかは誰にも分かりません。ただし、その価格で実際に売れており、利益も出ているのであれば、それはそれでいいじゃないかというプラグマティックな解、つまりヒューリスティックだということです。

なんだかよく分からないカタカナが出てきます(^^;;
辞書で調べてみます。
プラグマティック・・・実用的なさま。実利的なさま。
ヒューリスティック・・・人が意思決定をしたり判断を下すときに、厳密な論理で一歩一歩答えに迫るのではなく、直感で素早く解に到達する方法のことをいう。 
分かった様な、分からない様な。。。。これの繰り返しですね。


経営学では、基本的に経営を執行する主体者の理知的な考察によって、できる限り最適に近い解を出そうという態度を前提としています。
しかし、そのようにして提案された価格と、市場における自然淘汰を経て落ち着いた価格のどちらに妥当性があるかを考えてみれば、答えは明らかに後者なわけです。つまり、「神の見えざる手」というのは、ヒューリスティックな解を生み出す一種の知的システムとして考えることができる。

主体的に最適解を求めるための技術である論理思考が猛威を振るう現代において、「何が正解かはよくわからない、成り行きに決めてもらおう」と考えるのは、思考の放棄ではないかと思われるかもしれません。経営管理に携わるという立場であれば、徹頭徹尾自分の頭で考えるという態度を、美徳と考えこそすれ、愚行と考える人はいないはずです。しかし、全ての最適解を自分で導出できる、と考えるのは知的傲慢と言えます。

モノゴトの関連性がますます複雑になり、かつ変化のダイナミクスが強まっている現在のような社会においては、理知的なトップダウン思考によって最適な解に到達することができると考えるのは知的傲慢を通り越して滑稽ですらあります。最適な解をオプティマルなアプローチによっていたずらに求めようとせず、「満足できる解」をヒューリスティックによって求めるという柔軟性も求められているのではないでしょうか。

柔軟性は大事だと思いますね。歳を重ねると固定観念から抜け出せなくなります。その為にも、読書をし、若者文化を否定せずむしろ取り入れようと意識しています。意識している時点でダメなのかもしれませんが(^^;;



ここまで読んで頂きありがとうございます😊