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のびしろ

悪者扱いしてきた街で
悪者扱いしてきたオトナへ

かつては、斜に構えることがかっこいいと考えていた。流行りの音楽は聴かなかった。名作と呼ばれる作品を鑑賞しては、流行りの映画には安易な批判をした。オタクだと思われたくないから、アニメは見なかった。それが正しいし、「いい大人」になるために必要だと真面目に思っていた。

今となっては、流行りの音楽もよく聴くし、流行りの映画も見る。流行りのものには流行っている理由があるものだ。それに、これが当時の自分には最も意外だろうが、アニメはこよなく愛するようになってしまった(オタク生活はとても楽しい!)。斜に構えていたのが、いつの間にか斜に構えることのほうがむしろダサいと思うようになった。斜めだった心は、時計の針が進むようにいつしか一周し、もとに戻ったのかもしれない。

斜に構えていたころは、何よりもまず「自分」があり、「自分のやりたいことをやるのだ!他の人のことなど気にするな!」という自己主張のしかたしかできなかった。その時と比べれば、今はどちらかと言えば「他人」を人生の軸に据えているように感じる。親であったり、友達であったり、恋人であったり。おそらくこれは今後も変わらないだろうし、子供なんかができればなおさらそう思うだろう。

いや、これは「他人を軸に生きなさい」という説教めいたことを言いたいわけではない。斜に構えられなくなったのは、単に自分がエゴイストでいられなくなったからなのだ。追求したいものがあり、それに人生を捧げようという人はおり、どちらかと言えば自分もそうなりたかった。しかし、そうできない、そうなれないとどこかで悟ってしまった。そうであるがゆえに、斜に構えるのをやめてしまったし、いわゆる「真っ当に生きる」ことを選択したいと考えるようになった。

これが大人になることなのかしら、と思いつつも、でもやっぱり大人になれたという気は一切しない。というか、大人になれたかとか悩んでいるあいだはまだ子供なのだ。でも、これは逆に言えば、まだまだ自分にものびしろがあるということかもしれない。上手なサボり方も、甘え方も、綺麗なぶつかり方もまだまだわからない。ただ、少なくとも、かつては悪者扱いしてきたオトナに、自分もきっとなりつつあるのだということはわかる。そして、もっと成長して、自分も若者に「悪者扱い」されるくらいには真っ当なオトナになってやろうと、そんなことを考えている。


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