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[瞑想] 心を鎮めて何の意味があるの?リラックス?(だけじゃない)

「今日は何気ない普通の1日だったな。」

なんでもない1日だったとしても、その中には、それなりの我慢とイライラと無力感と”そんなはずじゃないのに”と後悔と妥協とあきらめが隠れている。大人になるにつれて、そういう過ごし方に慣れてしまう。だから、よく観察する必要があるんだ。

ソファに座る。目を瞑って、深い呼吸をする。

真っ暗だ。おとなしく呼吸していると、前触れもなく誰かがしゃべり始める。しゃべっているのは聞き慣れた声、自分の声だ。

はじめは自分でもよく知っている内容の発言だ。「今日もあいつにはムカついた」「ああ、はやくこんな会社やめたい」「メダカは元気かな」

もっと耳をすませていると、認識していない自分の声が聞こえてくる。「なかなか食べたものの消化が終わらない。食べ過ぎだ。これでは集中できない」「なぜ、あの上司は俺を認めないんだ。もっと認められたい」「メダカの様子が気になって仕事になってない」「そういえば、あの仕事が終わってなかった」「もしかしたら、あの人が言いたかったのは、こういうことか?」など。

まっくらな空間に上からスポットライトの光が落ちてきている。目が慣れるにしたがって、その空間に浮かんでいるホコリが少しずつ見えてくる。焦点を近くにしたり、遠くにしたりさせながら、ひとつひとつのほこりに焦点をあててよく見る。すると、「言われてみれば、確かにそんなことを考えてた」とか「この気持ちは、大人になるまでに封印していた気持ちだ」とか、自分自身が気がつかなかった声、自分の弱さから目を背けていたりしていた「声」に気がつく。

瞑想のやり方の指南書を読むと、こういった「思考」や「感情」があることを認識する、とか、その根本にある欲について理解すれば良い、というようなことが書いてある。

でも、これは僕の場合には効果がない。

確かに、理性的に検討を重ねて消えるものもある。例えば、「もっと会社で昇進したい」なんていうもの。今の生活に満足しているし、昇進したとしてもやりがいもワクワクできるチャレンジも特になさそう。昇進して給料があがったら贅沢ができるかも知れないが、それと引き換えに責任とストレスが増える。しかも、特に贅沢したいとは思わない。どうやら、会社で昇進しなければいけないと思っているのは、親の思想や社会の通説の影響やであり、自分の心からでたものではない。という風だ。

だけど、「声」はそんなにカンタンに割り切れるものではないものも少なくない。例えば、「隣の住人の騒音がすごくてイライラする」なんていうもの。こういった雑音は、いくら頭で理解しても消えることはないのだ。黙って座っていても、毎日毎晩、埃は巻き上げられる。

瞑想だけでは問題は解決しない。

じゃあ、何をすれば良いか。その問題に自分にできることを考えて、行動するしかない。「隣の住人の騒音がすごくてイライラする」なら、「耳栓をして過ごす」とか「苦情を言いにいく」とか「違う場所に引っ越す」などの行動を決めれば良い。

このように、瞑想とは、注意しなければ聞こえない心の声を敏感に聞くための手段といえる。声を聞いた後は、理解して解消するか、行動で解消する。自分の声と真摯に向き合うことは、自己肯定感を高める。溜め込んでいる我慢とイライラと無力感と”そんなはずじゃないのに”と後悔と妥協とあきらめから、自分を解放するのだ。つまり、瞑想は、自分の心の動きを敏感に感知するためというだけではなく、それをきっかけに明日の行動を変えるためにある。

瞑想は、自分らしくより良く生きていくためのきっかけに、なる。

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