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いじめ考3-教育はどこで、何を?-

 第2回の後半、家庭教育についてのお願いやら、言及やらが多くなってしまいました。多くのご家庭では、家庭教育は機能していると考えます。
 そんな中、飛び込んできたのがこのニュース。タイムリー過ぎて、勢いでいじめ考3を始めてしまいます(笑)

中国が〝しつけ〟を法制化へ 教育への介入強める共産党・政府
https://www.iza.ne.jp/article/20211019-A5NOBVKGPBPHZPZAK3ETH4J37Y/

 さて、このニュースを受けて考えたいのは、教育はどこで行うのか問題です。一般的には「幼稚園や学校などの教育機関で」と考えるのでしょう。しかし、私は違った考えを持っています。これを理解していただければ、いじめの早期発見・解消にも繋がると考えています。

 まず、教育はどこで?に対する私の答えは、「家庭」と「教育機関」と「地域社会全体」です。当たり前といえば当たり前な話です。この答えは、それほど違和感なく、受け入れていただけると考えます。
 ただ、問題はその割合です。教育全体を100として考えた場合、それぞれどの程度の割合で、どの役割を担うとよいのでしょうか?その部分について、共通理解はあるでしょうか?

 理想的には1/3ずつなのでしょうが、そうはいきません。保護者には仕事があります。学校で過ごす時間は長いです。地域のつながりは徐々に弱まり、不審な人物がどこに現れてもおかしくない時代です。社会全体の価値観の変化・多様化と共に、子どもたちも変化・多様化しました。ジェンダーフリー、発達障害、HSP等、一人ひとり様々な問題を抱えています。こうした現状を踏まえて、今の教育制度は、子どもたちの成長にきちんと対応できるようにバージョンアップされてきたでしょうか?私の答えは「No」です。

 戦後に設計された小学校・中学校・高校という教育機関に、これまで大きな変更は行われませんでした。1クラス(8×9Mの空間)に、40人前後の子どもたちを詰め込んで、一斉授業の形式で教育を行う。やり方の工夫や微々たる変更はありました。しかしこの間、学校という教育機関は増えましたが、教育制度はほとんど変更されていないのです。
 一方、社会は戦後70年以上経って、どう変化してきたでしょう。敗戦国から、高度経済成長を経て、バブル経済、バブルがはじけて失われた20年。そしてICTの普及。
 日本の「学校」という教育機関と教育制度は、今の社会の変化にほとんど対応できていないのです。

 今の社会、これからの社会に合わせて、日本の教育制度は大変革が必要です。これは私からの問いかけです。教育関係者のみならず、子どもと関わるあらゆる大人の皆さんに問いかけます。


 まず、小学校・中学校・高校は維持してもいいでしょう。ですが、6年・3年・3年が最適解ですか?6年・6年という選択肢(中高一貫校)は機能していますか?
 教育機関は、学校だけなのですか?塾やフリースクール、遠隔指導や個別指導なども含め、子どもに合った教育機関を選択できる制度にしませんか?
 1クラス35~40名の子どもを一人の教諭が見るシステムで、それぞれの子どもに個別で最適な教育を行えますか(毎日、毎時間ですよ)?
 OECD(経済協力開発機構)の平均は1クラス20人前後です。日本の教室の人口密度は異常ですよ?少子高齢化が世界一進んでいると言われる日本で、いつまで教室はぎゅうぎゅう詰めなのですか?
 ギガスクールもいいですが、ICTは魔法の杖ではありません。端末だけではなく、ネットワーク環境の整備や、端末のメンテナンス・アップデートもセットでなければ、持続的ではありません。また、子どもたちに端末が行き渡っても、教諭の数が少なければ、個別・最適な指導は実現できません。
 1教師当たり40人に指導を行うのと、20人に指導を行うのとで、より1人当たりにかける時間を増やせるのはどちらでしょう?どちらがこまやかで、個に応じた教育が実現できるでしょう?どちらが子どもにとって幸せでしょう?
 これが、日本の教育制度の現状です。

 そして、何より問題なのは、多くの人がこうした問題を知らず、「教育は学校に任せれば大丈夫」と思い込んでいることです。学校に行けば、プログラムが用意されていて、苦しくても、無理してでも、とにかく通い続ければ一人前の人間になれる。そんな思い込みがまん延しているのです。


 学校は「主に学問に関する知識を身につけ、実践する場」です。それを経済的・時間的な効率性を上げるために、ぎゅうぎゅう詰めで行っています(それでいいとは全く思いませんが、現状これが事実です)。そうすれば当然、学校は「集団で生活することの実践の場」にもなっていきます(が、これはあくまで副次的なものです)。
 そして、集団生活の実践の場では、しばしば様々なトラブルが起きます。なぜなら、いきなり「実践の場」に踏み込んでいくからです。しかし、実際にトラブルが発生した場合、「集団生活の基礎となる思いやりの種蒔き」や「社会性・相手の立場に立って考える力」の育成を、教諭が個別に指導することには限界があります。なぜなら、体制が整っていないからです。戦後の設計のまま、この多様化した社会の要請に応じた教育を行えば、おのずと限界は生じてしまうのです。

 そこで大切になってくるのが家庭教育です。集団生活の実践に入る前に、いじめ考2で触れた「社会性・相手の立場に立って考える力」が育まれていること、または「人を思いやる種」が蒔かれていることが重要です。勿論、その力の度合いは、子ども一人ひとり、違って構いません。ただ、ほとんど力がなく、種も蒔かれていない状態で集団生活に入ることは危険です。他者に危害を加えてしまう可能性があります。具体的には、いじめとよばれる「攻撃」を行ってしまう可能性があります。

 いじめ考2で、家庭教育についてのお願いやら、言及やらが多くなった理由は、ここにあります。
①学校は「主に学問に関する知識を身につけ、実践する場」であること
②学校に付随する「集団で生活することの実践」では、「人を思いやる種」を個別に蒔いたり、「社会性・相手の立場に立って考える力」を個別に育む体制が整っていないこと
③「人を思いやる種」を家庭で蒔いて、「相手の立場に立って考える力」をある程度身につけた状態で、「実践の場」である学校へ送り出してほしいこと

 このあたりの役割が明確化され、連携して教育を行うことができれば、中国のように法制化などといった政策をとる必要は、なくなると考えます。

 教育におる地域社会の役割は、このツイートをご覧いただければ、言葉は不要と考えます。子どもは大人たちみんなで育むものです。
https://twitter.com/tyomateee/status/1450466905827987470


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