またこの日がやってきた。だからこそステイホームを。
在宅ワークを始めて13年目。コロナウイルス禍で在宅勤務の方が増えているのをみていて、息子が幼かったころのワークスタイルを記録しようと書き始めたのだけど、やっぱりやめた。なぜなら今年も福知山線脱線事故の日がやってきたから。毎年この日はやってくる。当たり前だけど。
はじめて仕事をいただいて自宅で作業したのは、ひとつめのデザイン会社を退職してすぐのことだった。親しくしていた外注の方が仕事を紹介してくれたのだ。
それはグラフや図のトレースといった比較的簡単な仕事だったのだけど、そのデータのやりとりのなかで依頼元の社長と何度か会うことになった。「仕事先を探してるならうちに来てくれない?」とお気軽な感じで入社を誘われた。「少し休憩がてら旅をしたいのでそのあとなら」と返事をして、1ヵ月半くらいしてから本当にその会社に入社した。20年以上も前のことだ。
その女性が経営していた会社は主に某大手広告代理店のプレゼン用資料を作成していた。PCの普及とともにその仕事が減りつつあったので、DTPの仕事を新規で受け入れ始めていたところだった。当初は社長の持っていたマンションの1室をオフィスにしていて、社長も含めて女ばかり5人、毎日たのしく働いていた。職場には年上のお姉さんばかり。末っ子だったわたしは、みんなにとてもかわいがってもらった。そのころの誕生日にいただいたアイロンはいまもまだ現役だ。
シングルマザーで男の子がひとり。子育てしながらマンションの一室で仕事を始めた彼女にあこがれた。自分もいつか、こんなふうに仕事をしてみたい。誰かを雇うまではしたくないけど。自宅で働くというビジョンがはっきりと確認できたのはこのときだった。
それから会社は徐々におおきくなり、大阪でもデザイン会社がたくさんあるエリアにオフィスを移し、社員も増えて、姉妹のように仲良く働いていた小さなオフィスは少しずつ会社らしくなっていった。
ひとが増えると仕事も増えるし面倒なことも増えていく。その空気にのまれたわたしはしばらくして退職した。
それから何年も経って、あの脱線事故が起こった。遠い親戚が亡くなったと母から知らせがあったこともあり、犠牲になった方の一覧を新聞でみていたはずなのに、社長が亡くなっていたことに気が付かなかった。そのことを知ったのは何年もあとのことだ。
「不義理をしたまま会えなくなった」
このことがどうしても頭から、心から離れない。大事なことはそのとき伝えなければ意味がない。
いまはもう、そのころの同僚とも連絡をとらなくなって、連絡先もなくしてしまった。誰かにこの話をすることもない。事故の数年後、一度だけ現場へお参りに行った。碑ができたらまたお参りに行こうと思っていた。
結婚して、息子が産まれて、本格的に自宅で仕事をするようになった。独立した直接のきっかけとその後も継続してお仕事をいただけるのは、いまも続くご縁のおかげで感謝してもしきれない。だけどやっぱり、日々の生活のなかで時折彼女のことを思い出す。このコロナウイルス禍で自宅で仕事を続けられるのも、あの頃の出会いがあったから。そうでなければ自宅で働くことは考えていなかったかもしれない。
もしもう一度会えるなら、当時の不義理を謝罪して、感謝の気持ちを伝えたい。
だからこそ、いまを大切に。みえないものが蔓延する状況で、いつ誰になにが起こるかは予測できない。どうすることが正しいのか判断がつかない状況で自分にできることは「ステイホーム」一択だと考えている。
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