キャロル•キングになりたいガール
歌声というものは、変えようがない。
骨格や喉、体型諸々で決まってしまうからだ。
楽器なら練習すれば良いし、顔なら整形できるかもしれない。
喉を多少は鍛えることはできるだろうが、根本的に変えることは不可能だろう。
唄うたいには、「歌声はギフトだから、やりなさい」と進言する。羨望の意味も込めて。
ここ数年推しの歌声を何年も繰り返して聴いてしまう。この現象について、何年も考えていた。
仮にも楽器演奏者の端くれである。色んな演奏を聴いて吸収していきたいのに推しの歌につい惹かれて聴いてしまうのだ。
なぜだろうか。あくまでもひとつの説だが、興味深い本を見つけたのでそこから引用する。
歌やダンスは古来より祭に使われてきた。
人間、あるいは生き物全般にもいえることかもしれないが、求愛行動だ。
男は狩に出かけ、食べ物を持って帰る。
女は当然食べ物を沢山持って帰る男と寝たいだろう。それを前提とするならば、やっぱり金を稼ぐ奴が好きなんじゃないか。となりそうだが、そうではないらしい。
歌が上手い、あるいはダンスが上手い、絵が上手いなど芸術的センスのある男がモテるんだそうだ。
それは男としての余裕が表れるからということらしい。
なるほど。食べ物が確保できないと、歌やダンスなんぞにうつつを抜かしている場合ではない。
私たち女は、余裕のある男に惹かれてしまった女から代々産み落とされてきた子孫であり、本能的に才能に惚れてしまうらしい。
歌やダンスが上手いのは男の余裕故のモテ要素というワケだ。
つまり私は推しの求愛行動に反応しているだけだということだったのだ。余裕を愛してしまっている。
歌に愛の歌が多いのはそういうことだったのか。
妙に納得してしまった。
では、女性の歌はどうなんだろうか。
同じく、古来から女性が祭で歌やダンスをやってきた歴史がある。
女性においては、崇拝するものとして、男女問わず惹かれてしまうのではないだろうか。
神として崇められる存在、あるいはその媒介者として女性が歌う踊る。
こちらも妙に納得できる。
歌姫達はどこか神々しくて美しい。
そう。キャロル•キングの歌は神々しくて美しいのだ。そして、大丈夫よ、と私を励ましてくれる。ひとつの救済としての歌。
キャロル•キングを聴きながら、そんなことを考えていた。近くて遠い神。
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