古木警部補の日常【ショートミステリー】
作品紹介:動物モノのほのぼの日常系ミステリー。4000字程度でサクッと読めます。面倒見も良く、人柄もいい古木警部補には大きな秘密があってーーー
<本編>
誰でも良かった。とにかく全てが気に入らない。ムシャクシャしていた。
動機といってもそんなものだ。我々は所詮生き物…。動物だ。
殺すつもりはなかったが軽症で済ませる気も無かった。
目の前に無防備な背中があった。偶々、それを見かけた。それで十分だった。一気に相手の背後から距離を詰めると相手の後頭部に体ごと伸し掛かり、地面に押し付け、いや、叩きつける。
爽快だった。脱走してきて良かったと心から思う。娑婆がこれほど楽しいとは思わなかった。今まで自分を虐げてきた奴らに一泡吹かせた事実が、自分を高揚させていた。
「何故、凶悪犯罪は無くならんのだ」
古木警部補は悲しげに空を仰いだ。しかし、すぐに平静な顔に戻ると、微笑みながら、しかし実直そうな瞳でまっすぐ波田を見据えた。
「許せんな。絶対に犯人は捕まえるぞ、波平」
「はい。もちろんです。警部補」
波平と呼ばれた…波田平二は神妙に頷いた。そのアダ名で呼ばれるのは決して良い気持ちではないのだが、新しい上司の手前、拒否するのは止めておいた。
「ふふ、すまんな。コンビを組んでさっそくアダ名で呼んでしまって。あんまり好きなアダ名じゃないのかな?でも距離を縮めるにはその方がやりやすい。何より捜査にはチームワークが不可欠だ。こういうことは後々生きてくる」
古木はウインクをしようとしたがある理由により失敗した。その理由は後述する。
「別に捜査の時は上役とは言え、私のこともアダ名で呼んでもらっても構わないよ?」
「い、いえ…。さすがにそれは言い辛いので…」
「しかし、君の波平というのもなあ。他の人と同じ呼び方というのも芸がない気もする。失礼ながら君は体も大きく、馬面気味だな。よし、サラブレッド刑事というアダ名はどうだ?」
「波平の方が慣れておりますので、そちらの方が助かります…」
とても背の低い上司を見下ろしながら、波田は複雑な思いを胸に秘めていた。古木は警部補という階級の割にはフランクで人懐っこい性格をしており、下からも慕われていそうな雰囲気をまとっている。とにかく風貌がなんというか…愛嬌がある。いや、有りすぎるといってもいいだろう。
波田が古木警部補とコンビを組み始めたのは今から2週間前からであったが、大きな事件の捜査は今回が始めてであった。
古木は麻薬取引の検挙、逃走する強盗を取り押さえる等を皮切りに様々な難事件を解決し、異例のスピードで警部補に昇進。驚異的な犯罪に対する嗅覚と運動能力は人間離れしているところからあだ名はドーベルマンと呼ばれており、本人は気に入っているようだ。
波田も署の名物刑事とコンビを組めるとあって大いに期待をし、何か良い刺激を得たいと思っていた。
確かに古木は評判通りで、前述したように背は恐ろしく低かったり、ウインクが下手だったりするのだが、それが逆に他人にはない突出した愛嬌を生み出しており、周りからも好かれているし、本人自身の犯罪捜査への情熱、そして能力、人柄に波田は大きく感銘を受けており、全く非の打ち所のない上司だと今でも思っている。
ただ一点、古木が犬であることを除いては。
言葉の通り、犬である。犬用の服を来て犬が古木警部補と名乗って現場に来ている。それ以上でも以下でもない。ただただ、人間の言葉を話し働いている。犬種はコーギーだ。上司に対して犬種と言っていいのかどうか波田は未だに悩んでいるが。
どうみてもコーギー犬なのだが、周囲は全くそれに違和感を覚えておらず、人間として接している。本人も自らを人間の古木警部補と思っているようだ。コーギーなのにあだ名がドーベルマンというのもややこしいのだが、根本的な問題の前ではそれを議論している場合ではないのではと思っている。
初対面の時は一種の錯乱状態に陥り、病院に通ったが働きすぎという診断書が出ただけであった。何度、周囲に訴えても首をかしげるばかり。挙句の果てには精神不安定ということで進退が危うくなりそうになり慌てて訴えを取り下げる始末だった。
だが、納得など出来るわけもなく、写真で古木を撮影したが何故か写真に映らず、別の意味での恐怖心が生まれ、今では無理やり自分を説得させる日々である。
そんな葛藤の中、緊急収集がかかり今回の現場に二人して…いや、一人と一匹でやってきたのである。
今回の事件は連続暴行事件であった。小学1年生、幼稚園児、そして今回また幼稚園児と3件目の犯行で、被害者は全員未だに意識が戻らない。真っ昼間の犯行にも関わらず、目撃情報も皆無であった。3件の犯行の間はそれぞれ数分程度ずつで流れるように行われ、いずれも保護者が眼を離した一瞬の隙にやられており、推測ではあるが、傷の場所や衣類の汚れから、被害者はいずれも後ろから押し倒され前頭部を地面に叩きつけられて気を失わされたとみられていた。
「力の弱い子供を狙うとは…。犯人はよほどのクズか腕力に自信がない女子供の可能性も考えられるな。いずれにせよ、まともな奴ではないだろう」
古木は真剣そのものなのだが、舌を口から出しながら犬特有のハッハッという音がその説得力を著しく阻害していた。
「とにかく現場には犯人の匂いが残っている。見落とすなよ」
古木は地面に鼻をダイレクトに着けて匂いを嗅いでいる。どういう意味で匂いを嗅げといっているのであろうか。波田は邪念を振り払った。
「古木警部補!遺留品が見つかりました」
若い制服警官が小さいビニール袋を手に走ってきた。その警官は私の顔を何度もチラチラみてくる。
「なんだ?」
「君の顔があまりにも縦長だから驚いているのだろう。やはりサラブレッドの方がいいのではないか?」
「いえ、サラブレッドってのはどうも…。彼とは何度か現場で会っております。なんだ、どうした?」
「は、いえ、なんでもありません」
彼の顔が若干笑っているようにも見えてイライラしてくる。顔が長いのは生まれつきだ。文句があるなら親に言え。顔を見て笑うというのも失礼な奴だが、冷静に考えると、自分が古木警部補にしている反応も似たような物だなと思い直した。
「それで?遺留品ってのは何だ?」
「アクセサリーのようなものですが、血が付着しておりまして、もしや被害者のものかと…」
薄いプレートのようだ。銀色に逆三角形をしており「秋田042」と刻印されている。表記の秋の文字の部分が血で汚れていた。
若い警察官…松本巡査はそっと古木警部補の鼻先の地面にビニール袋を置いた。手渡そうにも相手の手がないのだから他にやりようがない。こいつは本当に自分の行動に疑問を覚えていないのだろうか。
「間違いない。犯人のものだな。血はおそらく被害者のものだ。こいつで痕跡を追っていこう」
確かに血痕が付着している以上、犯行に関係している可能性は高いが、犯人の物と断定するのはどうだろう、と波田は思ったが、
「わかりました。さっそく鑑識に回して指紋とDNA鑑定を行いましょう。おい、松本巡査、これを鑑識へ頼む」
古木の鼻先からビニール袋を取り上げて松本に手渡した。そのままにして古木の反応を見てもよかったのかもしれない。
「秋田というのは犯人の名前ですかね。しかし、【042】とは一体なんだろう」
松本の質問に古木は答えず、熱心に地面を嗅ぎ回っている。もういいから早く鑑識に行け、と波田が言いかけた。
突然、古木が走り出した。
「警部補!どうされました?」
「犯人がわかった。今から追跡する。波平、松本巡査、着いてこい」
古木は短足のくせに早かった。犬だから当たり前なのだが、短い足をスクリューのように回転させ、尋常ではないスピードで住宅街を駆け抜けていく。浪田も足の速さでは負けたことがないのだが、何より古木の小回りの利き方が尋常ではない。住宅街のような場所では体の大きい波田と松本は必死で追いかけるも勝負にならない。古木にしか通れないトンネルのような塀の穴を潜って行ったところで、ついには見失ってしまう。
「はあ、はあ、はあ。す、凄まじい速さだ。人間離れしている」
肩で息をしながら感心する松本を無視して、波田は周囲を見渡す。
突如、近くで犬の咆哮が聞こえた。
「あっちだ」
波田は駆け出す。
松本は何故わかったのか首をかしげながらも必死でついてくる。
十字路を曲がると古木を発見した。巨大な犬、秋田犬と対峙している。お互いに大きく低い唸り声をあげ、牽制しあっている。秋田犬の首元には遺留品のプレートと同じ銀色のプレートの破片が首輪の先に着いていた。
そういうことか。見た瞬間、波田は全てを理解した。しかし、話している余裕はなかった。
秋田犬が突如、巨体に似合わない速度で古木に向かって突進した。
交わしきれず吹き飛ぶ古木。
「警部補!この野郎!」
波田は迷わず秋田犬に飛びつく。しかし、俊敏なステップで波田のタックルを交わした相手はにやりと笑った気がした。
やられるっ…。
そう覚悟した瞬間、目の端に茶色い影が写ったかと思ったと同時にキャインという犬の鳴き声。
ジャンプしてきた古木の両手が、いや両前足が秋田犬の目にヒット。目を押さえて転げ回る相手にフサフサの毛をなびかせ追撃のボディアタック。
腰が引けながらも松本も協力し、無事、暴行犯を検挙したのであった。
「しかし、何故、犯人…いや、こいつの居場所までわかったんですか?」
松本は縛り上げた秋田犬と古木を見下ろしながら問いかける。愚問だと思いながらも波田も古木を見つめる。
「私のアダ名はドーベルマンだよ?匂いでわかるさ」
ハッハッハという音と尻尾の動く音がせわしなく、そして静かにこだましていた。
ただ松本はいつ誰に切り出そうかずっと悩んでいた。波田とは何度も現場で会っているのだが、どうみても小柄なポニーにしか見えないことに。周囲には波田が人間に見えているようなのだが。