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犠牲という言葉がぐるぐるしていた一日

”犠牲”とか”自己犠牲”とかいう言葉が頭の中でぐるぐるしたまま一日が経ってしまった。

それは8月15日だったからかも知れないし、

図書館で「八郎」という絵本を借りて読んだからかもしれない。

どっちにしても犠牲という言葉にひっかかりながらも、そのことについて答えらしきものが見いだせていない、ということだろうな。

自分は子どものころ読書は好きではなくて、最後まで読み切れた作品はほとんどなかった。そんな私が何度も何度も繰り返し読んだ数少ない本が、「ちいさなくれよん」という絵本と、「マザーテレサこんにちは」という児童書でした。

短くなって捨てられた黄色いクレヨンが「誰かの役に立とう!」と、見捨てられたものたちを黄色く塗ってあげることで相手を元気づける、その分自分の身は小さく小さくなっていく。最後には光の弱いお星さまを塗ってあげたい、といって星空に飛んでいくクレヨン。

それと、貧しい国で献身的に活動することで、死んでいく人々にひと時でも「自分も望まれて生まれてきた命」なんだと感じられる瞬間を施していたマザーテレサの姿が重なって、

私もこうでありたい、自分のことはさておいても、人のために尽くせる人になりたい。とあこがれを持って成長してきたのだと思います。

それなのに大人になってみると、そんなキレイごとでは上手に生きていかれないのだということを知ったし、「人のために」ということさえ、自己中心的、自己を満足させるだけのものだということを知った。

そして、戦争はそういう心を権力が利用したことで暴走していったし、今では「やりがい搾取」とか。ピラミッド型のこの社会の仕組みのなかでは、上のものが下のものの良心を利用して自らの利益にしようとしていることにも目が開けた。

だから今、あの時に夢中になった絵本や児童書を読んでも、例えば「八郎」のような勇敢な話を読んでも、純粋に素晴らしいとは思えず、「ほんとうにこれで良いのか?自己犠牲は美しいのか?」「こういう思想を信じて大人になったとき、本当に幸せになれるのだろうか?」ともやもやするばかりなのです。

自分自身を振り返ってみても、人が嫌がることは自分が引き受ければ丸く収まると、自分を我慢させてきたこと、人には理解を求めずに一人で勝手に傷ついてきたことをひしひしと思うのです。

そして今は、私が子どものころと違って、人のために犠牲になるのは美しくなくて良いことでもない、とにかく自分のために自分を喜ばすことが結果、人のためになるという考え方が流行っているように思う。けれど、なんか言葉のあやでいろんなことがごっちゃになってるみたい。

特に発展性もなくそんなことを一日ぐるぐるさせていたけれど、

今日の私は思うのです。

それは、「人のために、みんなのために」がストレートに言われる時、人は一人じゃなくてみんなで生きているということが当たり前だと言う前提があるんじゃないか?私一人がみんなのために尽くすのではなくて、みんなもみんなに尽くしている。互いに尽くして、私もあなたもみんなも尽くし尽くされる。

けれど、人は人と助け合うのではなくて、競争ばかり、うまくいかなければ自己責任、のような人間観を前提とすれば、
私が人に尽くしたことは横取りされるだけで、私が人から尽くされないこともある。そんな社会になってしまうのかも知れない。

てことは、犠牲という言葉をとりあげているだけではしょうがなかいのかも。

やっぱり私は人のために、みんなのために、と考えられる人でありたいもの。人間を信じたい。そしてそいう気持ちを互いに行き来させること(循環ていうのかな?)ができる世の中ならば報い報われ幸せだ。互いを信じ助け合える世の中になることを目指していたいです。

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