見出し画像

【6】雪の降り積もる場所で

「ふるさと」という言葉を聞くと、しんしんと降る雪に静かに白く埋もれていく街を連想する。
菜生さんから交換日記のバトンをもらい、連想したふたつの場所について今日は書きます。

自分の育った街、札幌。
父の仕事の都合で転勤も多かったけれど、ふるさとはどこか、と問われたら、一番長く暮らした札幌を思い浮かべる。進学を期に上京して、その後社会人として東京で過ごす期間が長くなるのと反比例するように、最近はそのふるさとの街を強く思い出すようになってきた。

今の時期になると雪虫が飛んでセーターにくっつくこととか、吹いてくる風が頬をきんと冷やすこと。空気がつめたくなるほどに世界が澄んでいくように感じて、なんだかあたらしいような気持ちになったりすること。ふとした瞬間にそんな全部を思い出して、ああ、帰りたいな、と思う。

一度離れ、外の視点から見るふるさとというのは、なんていとおしいんだろう。実家からほど近くに見える山脈が、太陽を浴びるときらきら美しくて目にしみる、ということも、大人になってから知った。

けれどなによりその街をわたしの「ふるさと」たらしめているのは、そこに住んでいる大事なひとたち、両親や友人のおかげだということも、最近感じるようになった。

「おかえり」といって迎えてくれる人のいることは、ありがたくてあたたかい。
年に数回帰省するというと、「親孝行だね」とか、「めずらしい」と言われることも多い。だけど、帰省して実際にほっとしているのは自分のほうなのだ。

***

そしてもうひとつ。「ふるさと」と聞くと、祖父母の暮らす青森県津軽地方を思い出す。
小さいころから父の転勤に合わせて引っ越しばかりだったけれど、祖父母の家はずっと変わらずそこにあった。夏休みになると母と一緒に帰省してその土地の子たちと遊んだり、農家を営んでいた祖父母について畑に行ったりした。典型的な「日本の田舎の風景」のひとつみたいだな、と思う。(おかげで津軽弁のリスニングができることが、ひそかな自慢。(笑) しかし発音は難しい。。)

その頃の思い出の中と今とでは、変わらない部分と大きく変わってしまった部分の両方がある。
昔から好きな自然の風景はいまも残っていて、夏には一面の稲穂が黄緑に揺れてまぶしく、その先の防風林の陰にかくれて見える湖の水面は、いつも同じようにはかなく光っている。
冬には地吹雪で目の前が全く見えなくなったりと過酷な一方、田園が一面真っ白な平野となって、どこまでも歩いていけるような子どもらしい気持ちを思い起こさせてくれる。

その一方で、人の住む村の中心はだいぶ変わってしまった。住んでいるひとの数は年々少なくなり、空き家もふえた。そこに訪れるたびに村が(いくぶんさみしい方向に)変わっていく様子を見て、いつもなにかできないかな、と考えている。

もしも、このままここに住む人がみんな年老いたり出て行ってしまったら。
土地の文化が、言葉が失われることほど、さみしいことはないんじゃないかしら。

ひとが離れることを止めることは、きっとできないかもしれない。だけど、その場所にしかない文化やその根底となる言葉、方言をなんとか守りたい。
わたしにとっての大事なふるさとが、あたらしい誰かのふるさととして続いていったらいいな、と思うのです。

***

交換日記なのになんだか妙にまじめっぽい内容になってしまった・・・!

次はこの交換日記を提案してくれたメンバーのひとり、ひーさんにお願いして、「いま一番やりたいこと」について聞きたい!
いろんな活動をしてるイメージがあるので、どんなことを考えているか知りたいな〜と思っています。



読んでいただきありがとうございます。 また来てくださるとうれしいです。