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夜の海原、淼淼たる

昨夜は深夜0時に注射を打ちに行った。
まったく体外受精の準備というのは、私の想像を超えてくる。

これもれっきとした非日常だけどあまり楽しいものではないなと、現実と乖離した頭で思いながら、夫と病院の夜間入り口に向かった。

深夜の病棟はひっそりとして、夫は怖いと言うけれど、何度も入院生活を送ったことがある私にはどうということもない。
懐かしい闇と、誰かに寄り添うようなにおいがした。

注射を終えてホテルに帰る。
夫とは訳あって別のホテルをとったため、途中で別れる。
「おやすみ」と手をあげて去ってゆく夫が、なぜか小さく見えた。

不安なのかもしれないな。

お互い全力を尽くしたうえで、結果が出ない場合の落胆は覚悟している。
覚悟しているからこそ、いい意味で不安は消えない。

まだ未来のことを考えている。
今だけを考えられれば楽なのに。

月が中空にある。
高松の街は眠らない。

不意に頭の上のほうで「ケイタ」と呼ぶ声がした。
女性の澄んだ声だ。

思わず見上げると、ビルの階段の踊り場から身なりの派手な女性が身を乗り出して私のほうを見ている。

まさか私を呼んだわけではないだろう。

そう思ったが、後ろには誰もいない。

もう一度、はっきりと私を見つめて、女性が私に向かって「ケイタ」と呼ばわった。
切実で哀しみに充ちた表情と声だった。

何か言わなければ、と思った瞬間、奥の扉から男性が出てきて彼女に何か耳打ちし、扉の中に引き戻した。

周りの音が戻ってくる。
一瞬、時間が止まっていた。

よく見るとそのビルにはバーや飲み屋がいくつも入っている。
その女性も相当酔っていたのだろう、私は「ケイタ」とはたぶん性別も違うし、かなりの人違いだ。
だが、いやな気はしなかった。
なにか事情があるのだろうが、それはわたしが知るところではない。知らなくていい。

ゆっくりと歩いてホテルに辿り着き、ベッドに横になる。

あの瞬間、彼女にとって私は確かに「ケイタ」だった。
そう思うと、「ケイタ」も「わたし」も、さして変わりはないのではないかと感じる。
私がケイタでなくても、ケイタが私でなくても、彼女は生きている。
そしてこれからも、生きてゆく。
それは私の希望かもしれないし、絶望かもしれない。

境界のない今は、私に余地を与えてくれる。
どちらでもいいという選択には、どちらでもない未来も含まれている。

そのことに強められ、私は目を閉じた。
深い眠りがやってくる。


わこ

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