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「撮る時は熱く、選ぶ時は冷たく」

昨日税金を納めておいてよかった。
今日は嵐でどこにも行けそうにないわ。家賃振り込みに行けそうにないわ。

聖徳太子のように10数件のデザイン案件を同時に頭の中で進めながら、あ、これ脳の外へ出してもいいかな、と思いついたときに、手を動かしてグラフィック化する。決して遊んでいるわけではない、と言いつつ。

けど、私は一体いつも誰に何を言い訳してるんだろう、と思う。なんでいつもごめんなさいって思ってんだろう。

畳に寝っ転がったときに視界に入ってきた、「PhotoGraphical」という本を取り出してパラパラめくって、こんな作為的ではないスナップフォトをどうやったらセンスよく撮れるんだろう、って考えて、そう考えているうちは永遠に撮れないだろう、と次々とページを繰る。

ページを繰っていると、今自分が悩んでいた答えがそこに書かれていた。スタジオ撮影の手法。こんなとこにあったか、答え。たまには専門外の本も読まないとなぁと思って、ふと、シャッター音のことを思い出した。

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私の日常はこのようにひたすら連想ゲームを続けている。連想ゲームが仕事なのかもしれない。だから、そのときにポンと浮かんできたことは、なるべく否定せず流れに身を任せるけど、どうしてもやっぱり言い訳がついてまわる。

そうだ、予定が狂ったっていいじゃないか。激しく脱線したって死ぬことはない。雨だし動けないし。嵐だし。古い家は揺れてるし。

そう諦めて押入れの中から、夫が集めていたフィルムカメラをそっと取り出して、こっそりシャッターを切ってみた。じりじり、とフィルムを巻いて、シャッターを押す。カッシャ、とかカシャとか、シュピっ!という音がする。私は最近あるオンラインサロンのカメラオタクの配信によって、シャッター音の魅力に目覚めてしまったらしい。この歳にして。人間どんなフェティシズムが眠っているかわからぬものだ。得した気分だ。

そういえば、私の初めてのカメラはオリンパス・ペンだった。半ば、当時付き合っていた夫に無理やり持たされたカメラ。君にはこのカメラが合っている、確かそんな理由だったと思う。

私は全くカメラに興味がなかったので、ただただデートはつまらなかった。またロケーション撮影かよ、と。当時は撮影した写真を画面で見ることができないから、余計にそうだったんかも。

その初めてのカメラで夫を撮る私と、夫が撮った私の写真をゴソゴソと取り出して見た。

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そうだ、コンタックスは肌色がとても美しく表現できたんだった。私は触らせてもらったことすらないけど。また撮ってくれる日は来るのだろうか。

6月も終わりだが、塚本晋也監督の「6月の蛇」と言う映画の土砂降りの雨の中、カメラのレンズで視姦され、エクスタシーを感じる主婦のシーンが思い出される。そうだ、視るという行為は愛に限りなく近い。親という漢字にも、見るという文字が入っている。シャッター音を愛と倒錯するなんて我ながら自意識過剰だとは思う。

現在過去未来と行ったり来たりする私の連想ゲームはまだまだつづく。


「撮るときは熱っぽく、選ぶときは冷たく」

その心はずばり写真を選ぶ時の心得だ。私は、デザインレイアウト、編集がお仕事なので撮る技巧よりも、むしろ写真選定スキルを磨いた方がいい。撮るのはカメラマン様にお任せでいいのだ。写真雑誌には、フレーミングの○×クイズのような例題があるがだいたい私の審美眼は間違ってはいないらしい、ほぼ正解。20年の無駄に長いキャリアでいつの間にか身についたらしい。

きっと、撮影者はなんでこの写真選んだ?って思うこともあると思う。でも「選ぶときは冷たく」きっと、距離を置いてみる人の方が、より魅力ある写真を選ぶことができるんだと思う。(商業カメラマンの話なので、表現としての写真家さんはまたこの限りではない)。あと、写真はデザインで化けることもある。

単体では成り立たなくとも、双方が合わさることで劇的ビフォーアフターする時がある。トリミングやキャッチコピーの挿入によって化ける。

普段撮る(見る)側の人間だけれども、撮られる(見られる)と途端にへなちょこになる。連想ゲームの終わりは自分のフェティシズムへの探究へと続く。




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