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書けない

文章が 日記が 書けない
正確に言うと 書くことはできる
でも、書いても何もない

ここで言う「書く」と言うのは
「誰かを魅了できる分かりやすい文章を書く」
ということではなくて、
ただただわたしのためだけにわたしが納得するために「書く」ということ

小学生の頃から書くことはすきで、
はじめは通信教育の教材として学習計画を立てるためのスケジュール帳のようなもの
小遣い帳もつけていた
親に従順な子だったのか もともと書くことが好きだったのか、おそらく両方。

それからずっと、学生時代も 社会人になったいまでも 手帳をつけ続けている
学生時代は毎日文庫サイズ1ページにつらつらと、社会人になってからはウィークリータイプに予定やちょっとした一言だけを書き付け、日記は気が向いた時に書くという形式に落ち着いている
noteのような匿名のエッセイ形式のアプリで長めの文章を書いていたこともあった。

わたしは書くことで自分の頭の中を整理しようとしていた。
人に合わせて流されているように見えて ひっそり頑固で 自分の感情や意思を外に出すのが下手だという自覚があって、
だから書くことで自分の感情を整理して可視化したかったんだと思う
日記もSNSももっぱら内省のためだけど、わたしの頭の中のことで誰かがちょっと立ち止まってくれるのも面白かった

最近だって書いている。
noteはつぶやきばかりだけど 手帳にも簡単なひと言を書きつけたり、
涙が止まらないとき 長めに書こうと思ってノートに向き合ったりしてみる
でもなにも残らないのだ。

以前は書いているうちに感情の輪郭がはっきりしたり、少なくとも書き切ったという達成感があった
今は書いていても着地点がふわふわ見つからず、思考が散らばって、ぐちゃぐちゃになって、それで、おわり。

自分の感情がどんどん遠くなって見失いそうだけど 書いてもなにも無いけれど、
いつかこんなときもあったなって、そう振り返るときのために、書けないなりに書いておく

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