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200511 草と知識を育てる話。


初夏。部屋でたくさんの草が新しい葉を出している。一部、名前を知らない草もいる。
「雑草」を、「知識が乏しいために名前を言うことが出来ない、多くの草。」とする辞書がある。

そうだよね、と思う。
そうだけどね、と思う。
そうとはいえ、と思う。



「そうだよね」に含まれる感情として、素直に謙虚に様々な分野に関する知識を蓄えねば、と姿勢を正す気持ちがある。知らないことを知ろうと思う時、大抵は興味のある分野ばかりを選び取ってしまうからだ。

知識を得る機会や興味を持つタイミングで多いのは、本に登場する言葉や物だったり、会話の知らない単語だったり、親しい人が熱心な事柄だったりする。特に親しい人との共通言語を増やすための検索は脳にとどまりやすい。
私の知識の根底には認知バイアスがある。

知識が乏しく名前を言うことが出来ないのは紛れもなく事実で、どうやら私は「知識が乏しい」ことにコンプレックスを感じているな。



「そうだよね」を踏まえたうえで「そうだけどね」と思うのは、知識を得る機会と興味を持つタイミングには、ある程度の運が関わることを知っているからだ。

ちなみに、幼少期の私の周辺の大人たちは、ほとんど教育というものに才能がなく、嘘や嘲りや冗談を軸に会話を展開していた。
具体的には「子供ってなにも知らないんだな(笑)」「こんなの知ってて当然だろ」を基礎にしていた。上記の何が最低かというと、これを続けられた終着点が、他人の言うことが信用できない人間、であることだ。

知識と興味の前提は、他者への信頼だと思う。

たとえば大勢の大人たちが、インスパイアやオマージュやパロディに笑ったり感動できるのは、知識として、大元の作品や共通言語があるからだ。

間違えても決して死ぬことはない知識の、しかし大人になるにつれ暗黙の内に常識と呼ばれだすそれを、当たり前のように平気な顔を装ったり、環境が整った段階で必死に調べた結果がここに座っている。
今も「知らない常識」にまみれて溺れているけど。



「そうとはいえ」、これまで買ってきた草は、名前も特性も知らないことが多かった。見た目と大きさから、宝探しのように選び出した鉢を家に持ち帰るときの幸せな気持ちは、知識と比例することはない。

サン=テグジュペリは本の中で、バラを重要なものにするのは、あなたがバラのために費やした時間である、と言った。
星の数ほどある「雑草」の中から見つけ出して、品種を調べたり枯れそうになるのを乗り越えたり毎日水分量の調整して、「名前のある特別な草」にしていくのは素晴らしい経験だと思う。たぶんこれが人間相手だと、恋と呼ばれたりするんだと思う。



ヘッダーにしたのは、少し前の写真だ。
家にいる時間が増えてから、草をながめる時間が増えた。

アボカドの種を水につけると根を出した。大きい鉢の草は、買ったとき名前の表記が無かった。もらいもののテーブルヤシはまだ生きている。サンセベリアは切った葉から増やしたもので、枯れかけていたところからここまで増えたので生命力に感謝をしている。死にかけで値引きされていたセロームも新しい芽が出てきたので、もう少し大きくなったら鉢を変えようと思う。

雑草の中から出会って思い出を与えられた草たちが愛しくて仕方がない。
多くの草の名前を知らないのは、特別な草の名前を知るためだと思う。



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