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200422 食事が下手という話。


食べ物の好き嫌いが無いと自負している。
が、もしかしたらただ食べることが下手なだけかもしれない。

食事の思い出

子供の頃は好物を最後にとっておく人間だったので、好きなもの以外を一生懸命食べて、お腹がいっぱいになって、すっかり冷めきった好物にいそいそと手を伸ばしたら、もったいぶりすぎて、嫌いだから残していると判断した親に食べられたことがある。

中学の頃までは食べるのが遅かったので、外食に行くとたいてい食べ終わるまで急かされたし、両親のどちらかが先に出て買い物などを済ませようとするので、申し訳なさで喉がつまっていた。

毎日毎日、必ず、3回も、食べ終わることを達成しなくてはいけなかった。

もちろん毎日3回の食事を与えられている身分であることはありがたいが、それと苦手意識とは別の話だ。

過食


家を出て、自分で食事をしなくてはならなくなった。

バイト先でバカみたいに罵倒されて理不尽に蹴られてストレスで潰れそうになったとき、ストレスを解消する方法が食べることだった。
お金は無くなるわバイトを増やさなくてはいけないわ、最低な悪循環。
子供の頃は「食べ終わることを達成」していたが、大学生の頃には「達成するために食べ終わる」ようになった。

食べ終われば一区切りつくことを学習していた脳みそは、もしくはストレスでうまく働かず糖をむやみに求めていた脳みそは、簡単に食事の量と回数を増やした。

過食はここ2年ほどでずいぶん落ち着いた。

いや、頭で思う許容量に、胃がついていけなくなってきているだけかもしれない。

食事中の違和感


家族、会社の人、仕事関係の人、知り合いの知り合いなどと食事をすると、異様なほど緊張する。ほとんど味を感じないレベルで緊張する。
ほんとうに気を許した人といるときには感じない違和感。
もちろん、食事に限らず人といるときは緊張をしているけど。

食事中は特に、全身が油断する。咀嚼のために口は塞がる。手は箸を握って使えない。視線の移動も限られる。気を許していない人間の前では、いつでも反撃できる状態でいないと不安なのかもしれない。
食べることに集中して無防備なときにめちゃくちゃなストレスがかかると、向こうからすればわずかなスパイスのつもりでも致死量になる。爪の無い鷹。牙の無い獅子。泳げない鰐。羽のない烏。

自分で作って、ひとりで食べるごはんはおいしい。


ひとりでも食事はできる。
むしろ緊張が起こり得ないのでひとりのほうがずっとリラックスしている。大学生の頃に少しずつ慣らして、ひとりで外食もできるようになった。

そうか。食事には、食べることそのものではなく、穏やかな気持ちを求めている。油断しても許される不可侵領域が守られることを求めている。

いま、リモートワークとは名ばかりの自宅謹慎にあって、気付けば生活をおろそかにしている。食事も睡眠も気付いたときにとっている。外の明るさでしか時間を計らないし、計ったところで何日の何曜日か、いまいち実感がない。

強制的に人とコミュニケーションを図る機会は、ある意味、私を規則的に生きさせていた。

ストレスがかかると強迫観念で腹を満たし、ひとりだと心が弛緩しすぎて食に意識が向かないという気付きを得た。


やっぱり食べるのが下手だった。


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