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200530 アバター越しに生きつつ自信を持つこと、または記号と意識の話。


自分自身を撮影して客観視するあらゆるメディアが苦手だ。
あわせ鏡が苦手なのは、相手から見た状態の自分が鏡のなかで動いているからで、動画なんかで自分の声が流れると、自分になりすましたなにか得体の知れない生き物が自分のふりをして話しているように感じる。

鏡は見られる。
写真はぎりぎり。
あわせ鏡は見たくない。
映像も見たくない。
音声も聞きたくない。

小学生の頃、親戚のおじさんが良いカメラを取り出したときなんか最悪だった。はじめは笑って断っていたけど、まわりの大人たちがこぞって善意の顔をして、撮ってもらいなさいと腕を引っ張ってきたのはホラーだった。必死で逃げて、しばらくトイレに閉じ籠って泣いていた。
中学生の修学旅行の写真なんて、まともに写っているのは集合写真と、友達と無表情で写った1枚くらいのものだった。

今では不自然さのないレベルで写真に撮られることができるようになったけど、写真を見返すと、片手がピースの形をしていても、もう片手を胸の前に置いて無意識の防御の体勢をとっている。


どうやら、自分が生きているのを他人の視点で見ることが苦痛のようだ。自分をどこに置くか、ということにひっかかりつづけている。


夢で見る視点というのがある。ここでいう視点とはカメラワークのことで、映画やサバイバルゲームのように、自分から見た映像も、引きで全体を見渡す構図もある。
夢のなかで自分自身だと認識している者を見ることに苦痛は無い。夢だからだというのもあるけど、主人公を自分自身だと認識しているだけで自分では無い、つまり映像を流し見しているだけの状況に近いからだと思う。
ほんとうに映画をみたりゲームをするのとほとんど変わらず、主人公に寄り添って感動したり苦しんだり浮かれたりしてるけど、あくまでもそこにいるのはアバターだというのが苦痛を感じない理由だと思う。

Twitterや、このnoteも、書き込むのは自身だとしても一挙一動が映されているわけではない。
絵を描くのは好きで、公表するのはやぶさかではないが、私自身を批評されるのは全く望んでいない。

そう。
作ったものを批評されるのはむしろ慣れている。

一面に並べられた絵をみんなで見て、それのプレゼンをし、批評をして批評をされて、あれこれ考えたり次の作品にどう活かすか練るのは好きだ。


つまり、自分と、自分が生み出すものを、切り離して考えているんだな。

作ったものには、大なり小なり意志が介入するので、たとえば前に『かおの話』で書いたけど、化粧をする(作る)過程で鏡を見ることは苦じゃない。
けど自分自身に自信がない。


自分自身と、もちろん商品を売り出す、営業とかいう職に就いているにも関わらず。


このまえ上司に、
「頭がおかしい。病気か?」
と言われて、否定はできないと答えた。
その上で、
「それでもそんな頭のおかしいお前を好きでいる人や話を聞いてくれる人がいるんだから」
となぜか諭された。
どんな人が私を好きかは知らない。ただ、私はイカれているだけだが、イカれている人間を好きだと思う人間は歪んでいるなぁ、と思ったりした。


書き出して改めて思い知るけど、どれだけ自分に自信がないんだ。何らかの感情で愛されることにまったく自信がない。

私は友達が好きだけど、私の相手をしてくれるのは月に5時間未満で良いと思っている。
家族は大切だが好きではないので、最低限のやりとりでなんとかコミュニケーションをとっている。


ほんとうに"ただの自分自身"を客観視できるようになるために、どうすればいいんだ。
知識にせよ経験にせよ技術にせよ、意思をもって作り込んだものには愛と自信をもっている。
自分自身ってなんだ。そんな根拠の無いものをよく愛そうと思えるな。自分自身の定義はなんだ。肉と骨か。たんぱく質と水分か。自分自身って誰だ。



なるほどな。
肉と意識で分けているのか。

"自分自身"を、DNAや染色体や元素や物体としての肉体や、つまり記号として考えているのか。
だから、肉を求めて近づいてくる人間に嫌悪があるんだな。記号を求めるなら他にも解は居ますよ、と思うのか。

意思でもって"作り込んだもの"が尊く見えるわけだよな。与えられた記号ではなく、選びとって洗練させてきた自信たちよ。


肉と意識が交わるところを目指すのがこれからの課題だな。交わることが正しいかはわからないけど。




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