20221030 本当にやりたいことと方便のはざまで

今日は少し、表向きのことではなくて、個人的な思いや感情を書いてみようと思う。
なにをやった、これから何をする、というのはツイッターの方で書いているので、そちらで。
こちらでは、ツイッターに時々書いている心情をもう少し深掘りたいと思う。

最近ミニネパールでいろいろなイベントを開催しており、Mがその担当となることが多い。
SNSやチラシ等での告知、集客から、場所の設営とかすべてのことを、一人で担当することも多い。
イベント中は気にならないけれど、終わると自分が疲れているらしいということがわかる時がある。(いつもというわけではない)

そういう時、自問するのは、自分はそれらのイベントを本当にやりたいのだろうか? 別の何かのための手段にすぎないのではないか? 誰のためにやっている? 私には意思はあるのか、やらざるを得ないとか、方便のためとか、そういうことでいつも物事をやっていないか? 本当にやりたいこと、楽しいことってなんだ?
というようなこと。

イベントの話があったときは、確かに自分もいつもワクワクとして、是非やりましょうと言う。それに偽りはまったくない。
ところが実際にやってみると、さまざまな困難やストレスに直面する。すると、初めの気持ちはいつのまにかどこか別のところへ行ってしまっており、上記のような、別のものにすりかわっている。もしくは、特に困難はない場合でも「自分はこのイベントを完遂させる義務がある」という冷静な視点で場を見ており、心から楽しむことはできないでいる。
イベントとはそういうものだろうとは思う。
(そうだとしたら、自分が楽しみたい場合は、自分で主催や担当をしないほうがいいのかもしれない。)

けれども、純粋に自分がやりたいイベントだってないことはないと思う。この人を呼びたい、この人の話を聞きたい、やってほしい、という。
そういうイベントを担当することも確かにあることはあるけれど、たいがい、誰かに頼まれたとか、必要とされていたからとか、そういう事情で開催することが多い。しかしそういう場合に限って、主体的になれないし、結果、無責任な言動をしてしまい、お呼びした人に迷惑をかけてしまったりしたこともある。

責任。
ここ数日よく頭にのぼったのがこの言葉。
主催やリーダーになると、参加者やお客さんに、この「責任」を求められることがわかった。なんどか、そのシーンが最近あり、「あなたが責任者ですよね、これができていないがどういうことか?」と責めを受ける体験をした。
これはもうこりごりだ、責任をもちたくない、と強く思った。
なぜそう感じたか? というと、自分は本当は責任者ではないのに、責任者として振舞わなくてはならなかったからだと思う。
つまり、自分の本当の意思でやっていることではないから、責任を追及されても逃げたくなる、違うと言いたくなる、という感覚。

自分の人格が未熟だから、とも言えるかもしれないけど、必ずしもそれだけではないかもしれない。

シーン1、ライブ中お客さんに「機材が邪魔で通れない。店の責任だ」と自分に向かって言われた。が、自分は店員ではないし責任はないと感じていた。
シーン2、イベント参加者に「あなたが責任者ですよね、食べ物の量が少なすぎます、どういうことですか?」と詰問された。確かにそのイベントの受付役ではあるけれど、食べ物の量のことまではこちらは感知していないので、そのように言われる筋合いはないと感じた。

小さなことで、気に病むようなことではないはずなのに、これらのことでけっこう落ち込んでしまった。どちらも、相手の立場に立てばそのような反応をするのは致し方ないとは思う、けれども、釈然としないものはしない。

本当に自分がその場の責任者であれば、もっと違った捉えかたをしたかもしれないと思う。

そんな私への処方箋として考えつくのは、自分自身が本当の責任者と思えるようなイベントをやったほうがいいのではないか、ということ。本当に自分が純粋にやりたいイベントをやったほうがいいのではということ。
人から頼まれたからといって、一人一人のことをよく知らない団体を受け入れて、形だけのイベントをしたり(そのイベントに意義がなかったという意味ではない。参加者にとってはそれぞれ意義深いイベントだった)するのではなく、本当に自分自身が、この人なら呼びたい、一緒にやりたいと思った人とだけ物事をやること。

思い返せば自分は感情や欲求が薄く、嬉しいとか楽しいとか、これがしたい、といったことを強く感じることが少なく、「やらなくてはならないから」「こうすることになっているから」「頼まれたから」物事をすることが圧倒的に多かった。そのことは人から指摘されることも多かった。
「あなたは他人のためにそれをやっているように見える」「本当にやりたいことをやっているように見えない」「犠牲になっているように見える」「笑顔がない」「幸せそうに見えない」。
自分ではそう思っていなかったのに、周りの人にはそう見えるらしい。いくら「いや、そう見えるかも知れないけれど、他人の役に立つことをやることが自分は好きだし、嫌嫌やっているのではなく意味あることだからやっているんだ」と言っても相手は承知しない。

「犠牲」。さらに思い返すと、幼少時より、欲求が少ないがために、親や友達の欲求の「犠牲」になることがとても多かった。親は自身の夢や目的や虚栄心を満足させるために私を利用した、と言っても過言ではない。犠牲体質、が身についてしまっていて自分でも気がついていないのかもしれない。(それだけに、それは自分にとって「自然」なこととなってしまっており、これを治してあげよう、癒してあげよう、本来の元気を取り戻してあげよう、といった人の厚意は逆にお節介と感じてしまい、そういう親切心を見せる人とは距離を置いてしまうことが多い。)

なんだか、エヴァンゲリオンの綾波レイみたいだ。
しかし自分は彼女のように、最後まで他人のために自分を犠牲にできるわけではない。シーン1、2のように、自分に害が及びそうになると、すぐに逃げ出してしまう。

あなたは感情を出さない、感情が見えない、とよく言われる。自分ではそのつもりがないので驚く。他人を見て、みななぜあんなに自分らしく、のびのびと感情や欲求を出せるのだろうと不思議に思うし羨ましい。そうしていても迫害されなかったからそのままでいられたのかもしれない。自分は子供の頃、少し変わっていて、感情を出すと、馬鹿にされたり、不適切だと怒られたりしたことがトラウマになって、感情を出さないようになっていったと思う。

さて、しかし綾波レイも、物語の終盤になっていくと次第に嬉しさや楽しさを見つけたり、自分の意思を見つけていったりする。それと同じように自分も、より、自分の欲求とか感情に素直に耳を傾けて、それに忠実に行動していくようにしてみたらいいのかもしれない。
幸いにして、これまでミニネパールで担当したイベントで、大きな失敗とか取り返しのつかないクレームのようなことはなく、イベントを持ちかけてくださった方々とは変わらず繋がりを保てている。なので、また一緒に何かできる可能性はある。

自分がやりたいこと。
音楽をやれる場にしたい。しかし、店でそれをやるか?それが適切か? それはわからない。店の売り上げ向上のため店で音楽イベントをやってみているけれど、自分自身がここで楽器を弾きたいだろうか? そもそも自分は音楽を必要としているのか? そのあたりから考える必要がありそう。

人の集まる場にしたい。安心安全な仲間が集う場所。
これが一番の願いである。

食の安心安全を。低所得でも払える価格でおいしいものを食べて、お腹を減らして苦しまない。

仕事がある。ちょっとした手伝いでも。みんなが、頑張ってくたくたになるまで勤めをしなくてもよくなるといい。

本当に純粋にただ衣食住、生活することを安心してできる場がほしい。それがいつも最大の関心事だった。

でもそのために、どうお金を回す? そのためにイベントや集客をやってお金を担保しようとしてきた。それはやはり方便となってしまうのは仕方がない。とも思うけれど、もっと、自分自身の欲求や希望と、現実を離れさせない方法もあるかもとも思う。(これは多くの人にとって究極の課題だろう)
試行錯誤はつづく。


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