藤本タツキ『ルックバック』ー「背中を見ろ」ではなく、過去を振り返り、もう戻れない関係について回顧し、後ろを振り返る事をやめ、また漫画を描き始めた人の背中があるだけ


研究社 新英和中辞典での「look back」の意味
look back
アクセントlóok báck 発音を聞く
《 自動詞+ 副詞》
(1) 振り返って見る.
(2) 〔…を〕回顧する, 追憶する 〔on, upon, to, at〕《★受身可》.
He looked back fondly on his school days. 彼は学生時代を懐かしく追憶した.
(3) [しばしば never, not を伴って] しりごみする; うまくいかなくなる, 後退する.
You must not look back at this stage. ここまできて後に引いてはいけない.

※以下太字注釈部分は本記事の作成者百均によるものである。


1.ルックバックとは

「ルックバック」とは、藤本タツキがジャンプ+誌上にて発表した読み切り作品の事を指す。

記事を書いている間に本が出たり、修正の騒ぎが起きてしまったので、これを公開する意味は消えてしまっているかもしれないんですが出します。

2.あらすじ

あらすじについては「なかたつ」さんという方が以下の記事にまとめて居たり、各種考察者の手によってまとめられている。概要としては下記記事を参考にされたし。

『ルックバック』とは、『ファイアパンチ』、『チェンソーマン』などの人気作品で知られる藤本タツキによる、少年ジャンププラスにて2021年7月19日に公開された読切漫画である。
143ページという非常にボリュームのある内容ながら、その洗練された内容で公開されるや大きな反響を呼んだ。ツイッターでは本作を絶賛する声が相次ぎ、藤本タツキのクリエイターとしての才能に同業の漫画家たちも次々に驚嘆。公開されたその当日中にはビュー数が200万を超え、国内外の注目を集めている。2021年9月3日には、単行本の発売が決定している。
小学生の藤野歩(ふじの)は、自作の4コマ漫画を学級新聞に載せてもらうのが趣味だった。クラスメイトからの評判も良く、「自分には漫画家としての才能がある」と得意げになっていたが、ある時隣のクラスの引きこもり・京本(きょうもと)が描いた精密な漫画に激しい衝撃と劣等感を抱く。努力してなお「画力で京本に勝てない」と挫折する藤野だったが、その京本が自身の漫画の大ファンだと知って有頂天になる。やがて二人はコンビで漫画家を描くようになり、何本もの奨励賞に恵まれるも、その道は次第にすれ違い、ついには“通り魔による京本の死”という形で断絶する。自分との出会いが京本の死を招いたと後悔する藤野だったが、「京本を救いたい」という彼女の想いが、不思議で優しいささやかな奇跡を起こす。



京本との出会い
・誰かが(現在)見ている風景≒京本が(かつて)見ていた風景
・他者との比較、評価によって動機づけられた勉強
「中学で絵描いてたらさ…… オタクだと思われてキモがられちゃうよ…?」

中学入る前に1度絵をやめる

京本との出会い2
卒業証書を渡しに京本の部屋へ行く(1度目)
「私っ!!藤野先生のファンです!!サインください!!」
感情がストレート
「みたい」の繰り返し
→中学入って再開
(一緒に暮らしてる?一緒に漫画を描いている?)

準入選する
≒評価される
→外へ遊びに行く
京本「私…人が怖くなって学校に行けなくなっちゃったから……」

連載の話
それ以前に読み切り7本載っていることもわかる
京本「ごめん私…美術の大学に行きたい…から だから…連載手伝えない……」
藤野「私についてくればさっ 全部上手くいくんだよ?」
京本「私…藤野ちゃんに頼らないで… 一人の力で生きてみたいの…」
  「もっと絵… 上手くなりたいもん…」
→藤野が一人で連載を開始

山形の美術大工で事件
男が刃物を振り回す
12人死亡3人重傷

回想シーン
冬のコンビニで彼女らが準入選を確認した際と思われる
京本「じゃあ私ももっと絵ウマくなるね!藤野ちゃんみたいに!」

藤野連載を休載する

京本の葬儀
京本の部屋に行く(2度目)
「京本死んだの あれ? 私のせいじゃん……」
10
パラレルワールド
藤野と京本の出会い
11
パラレルワールド
美術大学での京本
犯人との出会い
→助ける藤野との出会い(1度目)
12
現実世界に戻る藤野
京本が描いた4コマのタイトル「背中を見て」
13
回想シーン
「じゃあ藤野ちゃんはなんで描いてるの?」

3.何を語るか

ルックバックという作品を語るというのは難しいのだろうか。という疑問を最初に持ち出してしまう。持ち出してしまう理由はなんでだろうと考えた時、それは色々な人が色々な考察を出しているという事に対してなのかもしれないし、その色々な人が出している考察に対して自分がしっくりきていないからかもしれない。ただ、確かな事は、漫画を読むときに他の人の目を気にする必要があるのかということだ。

別にない。色々な出来事を絡めて読む必要もないし、絡めて読んでもいい。ただ、一番やっちゃいけない事は書いてない事を勝手に妄想して語る事だ。やっていいことは書いてある事から辿れる道筋をたどって得られる答えを元にこの記事を描く事だと思う。

だから、この記事には結論も何もない。僕が読んで思った事、その思った事がこの作品に書かれていて、それがあなたがこの記事を読んだ時にそうだよねと言えること。思える事。逆にその論理は飛躍していて違うんじゃないかと思える事。それだけじゃないかと思う。

こういう発言を最初に書いてしまう事は逃げかもしれないけれども、最初に逃げたから言わせてほしい。これからは多分逃げないし、これは逃げじゃなくて言い訳を封じる為の儀式だと思ってくれて構わない。

4.本論におけるあらすじ

ここでは藤野と京本の関係(漫画の制作過程における役割分担)に着目し、本論における仮説(結論)に視点をおいたあらすじをもう一度洗いなおしてみる。

Chapter1

小学生の藤野、4コマ漫画を学級新聞に連載

Chapter2

京本、藤野の連載している学級新聞に4コマ形式の絵の連載開始
⇒嫉妬した藤野は京本に対抗するために絵の練習を始める

Chapter3

藤野、京本の漫画(背景4コマ)を見て絶望し、かなわない事を悟る
⇒藤野の連載が終了

Chapter4

藤野、京本は小学校を卒業(と同時に連載誌は廃刊)
藤野が京本の卒業証書を届けた際に、自分の漫画の読者(絶大な理解者でありファン)であることを知り、次の作品を期待している事を知る。
⇒藤野、その日の内に新作読み切りのネームを作成。漫画を描き始める

Chapter5

藤野、京本と一緒に漫画を描き始める。(ペンネームは藤野キョウ)

Chapter6

藤本キョウで集英社の漫画賞を獲得。その後、藤野キョウ名義で読み切り漫画をハイペースで作成する。

Chapter7

高校卒業後、連載しないかと担当編集に持ちかけられる。
⇒京本、その誘いを断る。断る理由はもっと「絵」が上手くなりたいから。
⇒京本、美術大学に進学し、絵の勉強を始める。

Chapter8

藤野、藤野キョウ名義で「シャークキック」の連載開始。
⇒アニメ化までこぎつける。

Chapter9

京本の死。藤野、連載中止。
⇒回想シーンの中で、画力が上がればスピードが上がって漫画が良くなると藤野が京本に言う。京本、藤野みたいにが上手くなると宣言。
⇒京本の葬式に出席する。

Chapter10

藤野、京本の家に向かう。
⇒藤野、回想の中で京本が死んでしまう原因(加害者)をキックで倒し、京本を救った後、京本と一緒に漫画を描こうと宣言する。(が、回想なので、その宣言は現実にならない)

Chapter11

藤野、京本が4コマ「漫画」を描き始めていた事を知る。

Chapter12

二人で漫画を描いていた日々がセリフ無しで書かれる。

Chapter13

藤野漫画を描き始める。(シャークキックの続きを書き始める)

5.藤本と京本における「絵」のとらえ方ー京本は「漫画」を描いていたのか?

京本は漫画を描いていたのか? 

この簡単な問いに対して、「はい」と言ってしまいたくなる。なぜなら、藤野は京本と一緒に漫画を描いている存在であって、藤野が一度漫画をやめたのは藤野の4コマを見て自分の実力の無さを絶望したためである。本作はパット見た時に、藤野と京本が同じ土俵で戦い続けてきたように見える仕掛けに溢れているのだ。

だが、見てみると、京本が連載していた漫画は果たして本当に漫画だっただろうか? 実際にこれから提示していくが、京本が描いた漫画というのは最後の最後、美術大学に通い始めてから書いた4コマ漫画以外は、ただ背景を書いていた。学級新聞に掲載された4コマは4コマ漫画ではなく、背景を4つ組み合わせた正に絵の寄せ集めー小さな画集である。そして、京本が漫画の中で手掛けていたのは、背景部分だけなのである。

漫画とイラストの違いという有名なtweetがある。

太宰治「走れメロス」の冒頭分の文章を分割し、分割した文章をコマ割りした画面の中に当て込めている。その結果漫画のように見えるのではないかという所から、漫画から絵を引いた時に人は漫画を感じるのかという事を実験したtweetである。

漫画が漫画足りうるための要素というのは色々な所で議論されているし、僕は漫画の研究者でもないが、有名な漫画の構成要素を語った一文がある。「キャラ・コマ・言葉」の三要素だ。

 従来から「漫画の構成要素」として挙げられていたのが「絵・コマ・言葉」の三要素であり、それに替わる分類として伊藤剛が提唱したのが「キャラ・コマ・言葉」の三要素でした。
 その伊藤剛による「キャラ・コマ・言葉」論を膨らませるかたちで、「キャラ=同一性」/「コマ=空間」/「言葉=キャラではない文字や記号」と、各要素の意味を掘り下げていった(後略)

この原則に沿っていえば、「メロス、暴王=キャラ」、「小説にはないコマ割り=コマ」、「小説の文章(分割し、コマの形に則したナレーションのような配置への変換)=言葉=キャラではない文字や記号」と、先ほどのtweetは漫画の要素を満たしているため、この漫画の構成論を基準に考えればれっきとした漫画であることがわかる。(その内容の質や読みやすさやビジュアル性は必要最低限の要素を満たしているかいないかの話とは別枠になるためここでは触れない)

という原則から考えると、京本の書いた4コマ絵はやはり漫画ではないのである。京本が書いたのは、その死後、藤野が目にした4コマ(+壁に貼り付けた4コマ漫画)だけが漫画である。

そして、その漫画を藤野の元から離れ、美術大学に通いながら書いていた事。それから回想シーンの中で京本が発言していた、絵が上手くなりたいというのは、「私も(藤野みたいに)漫画が描けるようになりたい」なのである。この認識のずれというのがルックバックの面白さの1つであり、隠し味である。敢えて「絵」という言葉を採用する事によって隠され、見えないようなっているが、しかし、示されている。その意味を掘り下げて丁寧に読んでいく事で藤野の涙の意味の解釈が1つだけ解放される。

6.藤野が京本の何に嫉妬したのか

藤野や学級生徒の周りの人間が、藤野の描いた漫画と何を比較して京本に評価を下したんぽか。藤野は京本に嫉妬し、藤野は下に見られたのか。それは画力である。漫画力ではない。

「この
 プロ
 じゃん」
「京本の
 並ぶと
 藤野のってフツーだな」

⇒藤野は比べられたのは京本のである

「すごーい!
 藤野ちゃん
 なんでこんな上手いの!?」
「今まで見た
 生徒で一番うまいよ」
「こりゃ
 画家になれるだねぇ…」
「京本の
 絵と並ぶと
 藤野の絵って
 フツーだなぁ!」

「4年生で私よりウマい奴がいるなんてっ
 絶っっ対に許せない!」

⇒藤野に今まで下されていた評価は漫画ではなく、が上手いだった。
 (というのは藤野の脳裏によぎった過去の評価の回想シーンでもあるので、p3にてクラスメイトが藤野の漫画を笑っているシーンからして、藤野の4コマは絵ではなく、「漫画」としてクラスメイトから評価されていたという事がうかがえるが、その評かは京本の絵の前で消えてしまう)

「……ふふふ!」
「あははは
 ははは
 はは!!」
「絵うめー!」
「藤野ちゃん!
 今週の
 4コマも
 すっごく
 面白ろかったよ!」

⇒一部絵に対する評価も入っているが、おおむね内容の面白さ=4コマ漫画を面白いと評価しているクラスメイト達。

また、「絵うめー!」言っている奴が京本のセリフと「京本の/絵と並ぶと/藤野の絵って/フツーだなぁ!」絵の評価を連続して評価している(+このクラスメイトの発言のみフォーカスが当てられ、表情も細かく書かれている)ことから、このクラスメイトは藤野の漫画を読んでおらず、ざっと絵を見て判断している存在として一貫性を持った評価を下すキャラとして描かれている事が分かるだろう。(…という凝りようである。)

7.藤野の努力(Chapter2~3)

藤野は京本の画力に嫉妬して、練習をしていく。が、そのために参考にしたアドバイス、買った教材本のタイトルを並べていくと全て人や物のデッサンに関する本である。

つまり、京本が提示した画力=圧倒的な背景画の説得力を鍛える為の練習とというよりは、漫画を構成する「キャラ」に関する画力に対して全振りした練習であることがわかる。これは藤野が最初にみたサイトが「画力アップへの近道」≒「漫画におけるキャラや物の描き方の向上の為に必要な三要素」について書いており、それが画力向上につながると藤野が誤解してしまった(京本の持っている画力との方向性の差異)ことが示されている。

画力アップへの近道
➀パースを勉強しろ!
②人体の構造を覚えろ!
③立体を意識しろ!
・・・・・一番は、とにかく描け!バカ!

⇒こういうサイト、10年くらい前にあった気がするんですが、マジでみつからないんですけど、見た覚えがあって、多分漫画の描き方の中での画力向上をうたったページなんですよね・・・この情報誰かくれ。

J・シェパード、マール社「やさしい美術解剖図 人体デッサンの基礎」マール社
梁取文吾、西東社「基礎から身につく はじめてのデッサン」
デヴィッド・チェルシー (著)、 みつじ まちこ (翻訳)、マール社「パース!」
ジャック・ハム、 島田 照代、建常社 「人体のデッサン技法」

⇒背景に関する内容というよりは、人体のデッサンや、物のデッサンが中心の教本であり、背景画力を向上させるようなテクニックを示したような教本は漫画の中に提示されていない。

その結果、藤野の画力≒漫画力は確実に成長したのである。

8.藤野の4コマと京本の4コマの成長度

藤野の漫画、「奇策士ミカ」と「真実」を比べてみよう

「奇策士ミカ」
⇒学校という場所が提示されていない
⇒キャラの顔が表面のみ(女キャラはうまいが男キャラは適当)
⇒モブが棒人間、学校の風景の描き方は四角。絵で表現できないという理由でコメントで場面を紹介(学校の箱はかけても運動会という行事を絵で表現できない)
⇒人体のパーツがなく顔のみ(それ以外のパーツはかけないため棒人間で表現)
⇒レーンと廊下のかき分けができないので、セリフで説明。
(京本の4コマと並ぶという事から藤野はおそらくそこまで手を抜かずに書いたはずである。一回目の漫画と比べ丁寧に漫画が描かれている事が分かるということから、当時の藤野の平均的な実力が出ているものと判断)
「真実」
⇒「教室にて」と短いコメントを入れる事で漫画の舞台が学校であることを提示。
⇒人物の顔に線が入っている。また手が伸びており、人体のパーツが描かれている
⇒モブが棒人間ではなく、人の形(上半身)であり、また教室の中である事や授業中であることを示すために、モブが机に座っている描写を入れている
⇒先生であることを⇒で補足しているが、先生の困った様子を描く事で、キャラクターに演技させている
⇒その演技(絵の描写)を解釈する主人公の表情を演出(縦線の影)
教本やネットサイトのアドバイスに従った画力の向上=マンガ力が向上している=「キャラ・コマ・言葉」論を膨らませるかたちで、「キャラ=同一性」/「コマ=空間」/「言葉=キャラではない文字や記号」の表現の幅が拡張している

対して京本の絵は、どのような変化があるのか。という所で見ていくと、「放課後の学校」「夏まつり」を比較しても一見して変化が分からない。

絵心がない僕の目線から感じ取れる変化は4つだ。

➀学校の描写という通いなれた風景(不登校の前に見ていた学校の風景)から非日常的な空間を描いている。
②人が描かれている。(モブのかき分けの描写。)
③カメラのアングルが増えている(絵の構図のバリエーションが増えている)
④4コマ全てを使って夏祭りの街の風景を描くという挑戦
 (3コマ~4コマは単体で見れば何を書いているのか分からないが、1コマと2コマとつなげてみる事によって、夏まつりの喧噪から離れた場所を描く事によって、風景の演出にコントラストを生み出している)

➀~④の変化は、言って仕舞えば、藤野の絵というのが明らかに進化しているという風景画のバリエーションが増えた、表現力の深みが高まったと言えるかもしれないが、前回と同じ学校の画面を同じアングルから書かせたら変化があるかというとそういう訳ではない。

線の書き方や、物のとらえ方という意味、つまり新しい技法やテクニックを導入する事によって、京本の漫画が進化したというよりは、別のテーマで4コマを構成した場合、こうなったというのを4コマで提示しているだけのように思われる。

一見、藤野の4コマと京本の4コマを並べられた時、二人とも進化したかのように捉えてしまいガチかもしれないが、藤野の変化に比べて京本の変化というのは、ハッキリ言って仕舞えば、成長の変化に乏しいと言える。逆に言うと、成長後の4コマというのは藤野に対して圧倒的な元の実力差を示すだけの対比を示すかのような4コマとして提示されているだけなのだ。

比較することを前提とした「真実」と「夏祭り」の差異を見ていこう。

9.「真実」と「夏祭り」の比較

1コマ目
・場面を示す表現の対比
「真実」
コメントで「教室にて」
「夏まつり」
夏祭りの様子を屋台を描く事で一気に表現
2コマ目
・モブのかき分け
「真実」
笑っている様子をデフォルメされた記号で表現
「夏まつり」
一人一人のキャラクターを立体的に描いている
一人一人の服装に至るまで細かく表現
3コマ目
・補足の有無
「真実」
先生と矢印で補足(画力を文字でカバーしないと伝わらない
「夏まつり」
木だけのカットをぶち込んでも補足を入れない余裕
(テーマに則した時に一目で夏祭りとの関連性を入れずとも表現する余裕)
4コマ目
・暗部の表現
「真実」
簡易的な縦線(影)によるシリアスの演出
「夏まつり」
背景をベタで埋めて夜を演出
夜を描くために旅館(?)を入れる事で間接的に夜を伝える建造物のチョイス


3、4コマ目の表現については対比が難しい部分が多いが、1コマ目と2小まめの対比というのは素人目にも分かりやすい比較になっているだろう。

この比較の結果を受けて藤野は一度漫画を描くのをやめてしまうのである。

「真実」と「夏まつり」が引き起こした藤野の挫折が意味する事というのは、ルックバックにおいて非常に重要な意味を持っている。

9.二つの画力(絵を見せるための絵、話をみせるための絵)

「真実」と「夏まつり」の学級新聞のシーンと「奇策士ミカ」と「放課後の学校」の学級新聞のシーンでは、周りの評価の仕方が違う。

二人の漫画が最初に並べられて受けた絵の評価というのは、周りが初めて二人の作品を並べてた時だけしかしておらず、「真実」と「夏祭り」については誰も何も少なくともこの漫画の中では誰も評価を下していない。(更に言うと、この漫画を分岐点として周りの評価を下す人間は何度も存在するが、その存在について藤野はあまり気にしていない。背景が凄いと褒められても、藤野は落ち込まない。寧ろ自慢に思っている。)

ただ、藤野が京本の絵と自分の4コマを比較して、漫画を描く事をやめてしまうだけなのである。その藤野が京本の絵を見て何を思ったのかは明言されていない。が、この当てつけのような4コマの比較が示すのは、京本の画力に自分(藤野)が如何に努力を積み重ねたところで届かない事に絶望し、挫折したのではないかという可能性だ。

ここで、「ルックバック」における画力について再度整理し、こう定義つけよう。「絵」「画力」とは、キャラ・コマ・言葉の組み合わせの効果を高めるためのものと、「絵」そのものの力によって、キャラ・コマ・言葉がなくとも人にその情景を伝える力(画力)、その二つがある事が提示される。

京本が持っていて藤野が欲しい画力
・京本のような絵一枚で伝わる説得力
 (キャラ・コマ・言葉がなくとも凄さが見れば伝わる)
⇒絵を見せるための画力

藤野が持っていて京本にはない画力(個の正体は後の回想で出てくるが)
・藤野のような絵の力に頼らずとも伝得る事のできる表現の幅、その使い方
 (キャラ・コマ・言葉を組み合わせる事で、絵をちゃんと書いてなくともどこで誰か何をしていて何を思っているのか伝わる)
⇒話を伝えるための画力

この二つの画力の存在、藤野と京本の認識の齟齬を補完する重要なセリフがある。京本が殺害され、藤野が脳みそで回想したシーンの中の二人のやり取りのセリフだ。

「藤野先生は
 絵も話も
 5年生頃から
 どんどん上手く
 なっていって私
 確信しました……!

 藤野先生は
 漫画の
 天才です
…!」
「だからもしさ
 もしウチら
 漫画を連載
 できたらさ
 すっごい超作画
 でやりたい
 よね」

「私
 描くの
 遅いからなあ…
 もっと早く
 描けたら
 いいんだけど
 ……」

「んなの
 楽勝
 でしょ!」
画力が上がれば
 スピードも早く
 なるんだよ!
 私もっと
 画力上がる
 予定だし!


「じゃあ私も
 もっと
 絵ウマく
 なるね!
 藤野ちゃん
 みたいに!」

「おー
 京本も
 私の背中みて
 成長するん
 だなー」

京本はずっと、自分の作画速度が遅い事をコンプレックスに感じていた。その中で、藤野から超作画で漫画を連載しようと声を掛けられていた。その期待に応えられなかった京本が藤野に相談した時、画力を上げたらスピードが上がる。と京本に回答している。その答えを受けた京本の返事が「藤野ちゃんみたいに絵ウマくなるね!」と書いてある。

この違和感こそがこの漫画が京本の4コマを提示するまでのミスリードを生み出し、藤野の挫折、挫折からの復帰(2回)を描くために必須な一言になっている。

藤野と京本の絵の上手さというのは、方向性が違うのだ。藤野と京本の絵を比べて京本の方が絵が上手いと言った人間は、絵を見せるための絵として比較した結果を言った。だが、京本のこの会話からわかる事は、京本は自分の絵は藤野の話を見せるための絵と比べた時に劣っている事を自覚していた。
そして、ここまでの論を読めば提示されていると思うが、藤野は一貫して漫画を描いているが、京本は絵は描いているが、漫画を描いていないのである

京本が藤野に抱いていた漫画の神様という言葉は、京本における謙遜を示す言葉ではなく、藤野に対するその当時においては少なくとも正当な評価だった。その評かこそが藤野に漫画を描かせたのである。そして、二人は漫画を一緒に書き始める事ができた。

藤野は京本に「漫画の神様」と言われてから、どれだけ京本が褒められても京本に嫉妬し、漫画を描く事をやめず、逆にマンガを一緒に書きたいという思いを全面に押し出そうとしたのは、二人の持っている画力が重ならなかったからに他ならない。他者の評価などすでに二人にとってはどうでもよく、二人で過ごす時間を得てステップアップしていくための場所でしか意味をなさない。

10.なぜ藤野は漫画をやめ、もう一度書き始めたのか

京本は藤野の漫画(漫画という表現が出てきたのは京本が実は初めてである)が好きでその才能を認めていた。この発言に全てが詰まっている。

同じ土俵で勝負をしていたのではない。絵は絵でも藤野の勝負している場所と京本が勝負している場所は全く違ったのだ。

藤野は京本と自分の「絵」が比較されその才能にかなわない事に嫉妬し、挫折したが、漫画力については京本と全く争っていなかった。寧ろ、京本は自分にはない才能を持っていた。その才能を目の当たりにして漫画を描く事自体をやめてしまうほどに嫉妬していた。だが、二人は漫画を描くという事に対して4コマ漫画上で何も争っていなかったのだ。

この事実が藤野に漫画を描かせ、京本が藤野の漫画に背景を入れる事につながった。背景をどれだけ褒められても藤野は気にしなかったのだ。背景が上手いのは当たり前で、自分よりも才能を持っているのは当たり前で、でも漫画を描く力は自分にあるとき、京本は藤野の才能を補完する強力な味方でしかないのである。

「つっても
 二人で描いて
 完成に1年は
 かけちゃって
 ますし…
 背景なんて
 全部この子
 ですけどね」

⇒藤野は京本が背景を描いている事をなんの躊躇いもなく編集に伝えている。

「中学生とは思えない圧倒的
 なセンスでした!
 特に背景のレベルが
 高かったです!
 このまま描き続けてほしいです!」
「話やキャラクターに若さは
 感じるが、それでも13歳の
 クオリティではない。この
 ままいろんな作品にふれて
 どんどん成長していってほしいです。」

⇒話に対する評価は「若さがある」と低めだが、背景については編集がべた褒めである。であるが、藤野は京本に対して何も嫉妬しておらず、喜んでいる。

ここまで話を整理する。
本稿では下記4点の事について、ルックバックの描写からわかる事を記載した。

➀藤野(漫画力)と京本(一枚絵としての画力)が磨いていた画力の方向性が異なる事
②二人は自分にはない画力を磨くためには自分が今までしてきた努力を積み重ねれば得る事ができると思いつつ研鑽を積んでいたこと
③その変化に気が付いていたのは、藤野と京本だけであること
④二人の持つ画力は同じ土俵ではなく、別のフィールドであったこと
 ⇒その誤解が溶けた事により、二人は互いに持っている武器が合わさり藤野キョウが誕生した

この観点の補足を更に進めて行く。京本が殺された死因は、京本の絵を見た人間によって殺された。それは、京本と同じ土俵に立つ人間が京本の絵をみてその才能に取り殺されたように。それは、藤野がマンガを描く事をやめた理由と同じだ。

これがもし、京本の漫画が面白かったら、絵と漫画両方の画力を持つ京本に藤野は何も対抗できなくなってしまう。一緒に書く理由がない。京本が一人で漫画を描いて、その卓越した絵的画力を使えばいい。だから、京本の才能に嫉妬し、嫉妬した藤野が京本と漫画を描く理由として、京本が藤野の事を慕っていたからでは弱いのだ。

藤野キョウは一見、二人の名前が合体している事から、二人で作った漫画のように思えるが、藤野キョウの大部分の漫画的な構成を担当していたのは藤野であり、京本は背景した担当していなかった。言って仕舞えば、これはよくある原作と作画の二担当の関係ではなく、漫画家とアシスタントの関係に近い。藤野は京本に背景を書かせた。それ以外はおそらく何も描かせなかった。

「まだ
 いたんだ
 ていうかそこの背景終わったの!?」

「背景なんて
 全部この子
 ですけどね」

「京本
 描いてるの
 背景だけだし?
 それは
 アシスタントさんに
 任せれば
 いいわけだし…」

京本がなぜ藤野と一緒に漫画を描き始めたのかは書かれていない。なし崩し的に書くように依頼したのか、見せた漫画の背景を京本から書きたいと言い出したのかそこは言及されていない。この漫画に描かれている事実は、藤野が物語とキャラを描き、背景は京本が担当していた。

だから、藤野は一人+他の新規アシスタントの手を借りてシャークキックを始める事ができた。また、京本なしでシャークキックをヒットさせることが出来たという事実からも、藤野が作る漫画の要素に対して、京本はそこまで寄与していない事を指している。

藤野が漫画を作成する上において、京本の存在は精神的に大きな存在であった。しかし、「藤野キョウ」を構成する要素としては背景アシスタントという小さな存在でしかなかった。藤野キョウを成立させていたのは間違いなく藤野であって、京本がいなくとも藤野キョウはできてしまうのだ。

藤野の考えたIFの世界線上で、藤野が京本と漫画を一緒に書こうと言った発言からしても、藤野は京本と一緒に描く事が楽しかったし、それが藤野の見せた数少ない本音であった事は否定できないだろう。だが、それは京本がいなければ、藤野一人で漫画を描く事ができないと等しい訳ではないのである。あくまでも最大の理解者であり、初めてのファンであり、自分にはない技能を持ったという意味での藤野にとっての半身として、藤本キョウは存在した。それの半身が自分の元から離脱し、殺害された事による精神的なショックが藤野に二回目の筆を折らせた事につながったのである。

逆にいうと、藤野キョウにとって、京本はただの背景アシスタントでしかなかったという事が、京本が藤野の元を外れる要因の1であり、離れる事ができた理由につながるのである。それでは、今度は京本の成長という観点からルックバックを見てみよう。

11.京本の成長(なぜ藤野の元を離れ美術大学に進学したのか)

京本のコンプレックスとして書かれているのは、作画時間の遅さである。

「私は…
 間に合わ
 なくて
 毎週載せられ
 ないのにっ」

「藤野先生は
 学校
 行きながら
 毎週載せてて
 本当に
 同じ小学生
 なのかと
 疑うくらい
 凄くて…!」
背景美術の世界
⇒藤本タツキの過去作(週刊連載漫画の背景)
⇒同じ土俵の相手に対して憧れを持つ
⇒京本が藤野に抱いた気持ちとは別軸の気持ち
 京本にとっての対同業者という意味での憧れという挫折である
連載という言葉が出た時の
京本の苦悶の表情
「私
 描くの
 遅いからなあ…
 もっと早く
 描けたら
 いいんだけど
 ……」

「んなの
 楽勝
 でしょ!」
画力が上がれば
 スピードも早く
 なるんだよ!
 私もっと
 画力上がる
 予定だし!


「じゃあ私も
 もっと
 絵ウマく
 なるね!
 藤野ちゃん
 みたいに!」

「おー
 京本も
 私の背中みて
 成長するん
 だなー」


京本の挫折というのは、憧れに等しい形で描かれている事から、一見して分からない。だが、京本は藤野の漫画に対して、ある種の憧れを持っているが、それは漫画的な絵が上手い事に対しての憧れであって、自部の上位的存在に対してではない。京本は「背景美術の世界」を見る事によって、自分の上位存在を見つけ、その技術に憧れ(挫折)を味わうのである。

引用元の画像は藤本タツキがファイアパンチ、チェンソーマンの一部で使用した背景から持ってきており、言って仕舞えば、週刊連載というスピードの求められる現場において自分以上の背景を持つ存在がいており、それらと同じ現場に自分が経ったときに藤野キョウにおいて自分が足を引っ張る事を京本は危惧していたという事につながる。京本の顔が焦り、絵が上手くなりたいという願望をだすまで、京本の顔に焦りは見られないが、週刊連載という言葉を切っ掛けに、汗が噴き出、コンビの解散を申し出たという描写を見るにつけて、京本は自分の実力不足に悩んでおり、藤本キョウにとって自分が荷物となるのが嫌であったではないだろうか。

京本が自分で生きられるようになると宣言したのは、絵が上手くなりたい。という言葉の隠れ蓑でなく、本心である。具体的な翻訳を加えるとこうなる。

➀自分で生きられる=ただの背景アシスタントではなく、漫画的な画力を上げる修行をする(キャラ・コマ・言葉)
②修行をした結果、漫画的画力が向上し、週刊連載に耐えられるような画力が身に付く

➀~②の変化を経た結果、京本は何になるのか。その結論は目に見えている。背景アシスタントから漫画家になるという事なのではないか。

京本は、一人で背景をコツコツかいていた。そして、その領域は世界背景の美術を読むまで揺るいでいなかった。だれもが京本の絵を褒め、その実力を疑わなかった。それは正に藤野の一番最初の4コマを書いていて、みんなから褒められていた状態だ。だが、それが揺るがされ、上には上がいる事を知り、自分の実力が週刊連載するにあたり何も足らない事、足らない要素を補うには、美術そのものを極める勉強と漫画的な画力を身に着ける修行が必要であることを京本は外に出る事で思い知らされた。

だから美術大学で美術を学びつつ、家では藤野の4コマを手本にして、漫画の練習を始めたのである。

12.藤野と京本の関係、そしてなぜ藤野はまた書き始めたのか

その結果として京本が将来何を考えていたのかは分からないが、藤野の願望である、また「藤野キョウ」として連載漫画を一緒にする。つまり、これからは背景アシスタントではなく、藤野キョウという半身になるという未来を見ていたのかもしれない。だが、その未来は殺害される事によって果たされる事はなかった。その意味合いをこういう風に解釈する事はできないだろうか。

藤野に多大な影響を与えた京本(背景アシスタント)が自分で漫画を描く事を憶えて藤野の元から去っていった。藤野は京本が自分に見切りをつけ、自分の画力を上げる為に離れたと思い込んでいたが、そうではなく、京本が自分で漫画を描けるようになるために離れたのだ。

それが藤野がもう一度漫画を描く事ができるようになった理由である。京本が藤野の4コマを見て漫画を描き始めた事実が、藤野に漫画を再び描かせたのである。一番の友人であり、理解者であり、自分にはない要素を持っていた京本が独立して自分の漫画を描き始めた、一人で歩み始めていた。自分の事を見切りをつけて去っていったわけではなく、自分の背中を本当の意味で追い始めた。つまり、本当の4コマ漫画の勝負が始まったという事だ。

二人は「漫画」を競い合う関係=小学校の時の関係に戻ったのである。

13.拡大解釈

最後に、これは藤本タツキ先生の自伝漫画であるという所を示して終わる。

本作のあらすじを簡単にまとめるとこうなる。

➀作者に多大な影響を与えた背景アシスタントが独り立ちして漫画を描き始めた。

という事は藤本タツキのアシスタントにそういう存在がいるのかを探せばいいという所で、意図的に藤本タツキがTwitterでこういう解説を置いている。

『ダンダダン』とはジャンプ+で連載されている、龍幸伸の作品である。

時期的には、ファイアパンチとチェンソーマンの連載中に藤本タツキのアシスタントをしていた方だ。その影響度については同時期にアシスタントをしていた賀来ゆうじがtweetの中でその影響力について言及している。

龍幸伸先生は月刊少年マガジンやジャンプSQ.での連載・掲載経験がある漫画家で、『ファイアパンチ』『チェンソーマン』『地獄楽』などのメインアシスタントを勤めた。担当も林氏ということで交流が深い。賀来ゆうじ先生のツイートによれば「むしろ、僕や藤本タツキ先生が龍先生の影響を多分に受けています」ということらしく、その実力の高さが伺える。現在はジャンプ+にて『ダンダダン』を連載中。

また、藤本タツキの自伝漫画の要素としてルックバックの舞台が東北地方であり、且つ、京本が進学した大学や、絵に対するコンプレックスについての数々のインタビューが藤野の特性と一致する事が分かる。

藤本タツキは一貫して、自分には画力がなくどうやったらそれが身に付くのかという事を答えているのだ。そういう存在にとって、背景画力の高いアシスタントのもたらす影響というのは大きいのではないだろうか。という事と、チェンソーマン1部が完了してから2部が始まるまでの間にダンダダンが開始されたという事を踏まえると、この漫画の在り方をこういう形で再構築できるのである。

➀背景画力の高いアシスタントが抜ける
②抜ける事によって、自分の半身のような存在がそがれてしまう
 ⇒チェンソーマン一部の終了
③ダンダダンの連載開始
④チェンソーマン2部の開始
 ⇒ジャンプ+で過去の背景アシスタントと一緒の土壌で勝負をする

これは藤本タツキが龍幸伸が自分の元から離れて新しい漫画を描き始める事に対して振り返り、また一緒に漫画が描きたいと思いながらも、同じ土俵で連載が出来るようになることを祝福し、その巣立ちとこれからの関係について背中を見せ続ける=同じ発表媒体で連載という勝負をしていく

という事の表明ではないかと思われるのだ。










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