花を咲かせられなかったわたしの祈り
昨日は久しぶりの好天で、気分のいい一日だった。
花壇を見に行くのが日課だ。相変わらず、雑草を抜くのが億劫でさぼりがちだけれど、水やりと花がら摘みはまめにやっている。
チューリップが花を咲かせる直前のようで、蕾は今にも開きそうに柔らかだ。
しかし、生えそろったチューリップのなかに様子のおかしな子を見つけてしまった。
やわめに結んでいるはずの蕾がすでにだらしなく広がってしまっている。少し前からなんだか変な蕾だとは思っていた。
なんでこんなことになっちゃってるの。がっくり肩を落としてしまった。
花壇いじりを始めたのは、家を建てた2年後くらいだから、わたしの園芸歴はまだ2年ほど(我が家はこの4月で築4年を迎える)。
園芸初心者ながら、真冬に植えた球根が健やかに育つよう、丁寧にチューリップをお世話してきたつもりだ。春に可憐な花を見せてもらうのを楽しみにして。
「なんやろなあ、やっぱり雑草が原因なのかなあ」。育てたものが手間に報いてくれないとは、けっこう虚しいものなんだと知った。
わたしは保育園から中学校にかけて、武道のお稽古に通っていた。真冬でも板張りの道場で裸足のまま練習するのが当たり前。師範の言うことは背筋を伸ばして「ハイッ!」と聞くのが決まり。でも、不思議とつらくはなかった。
我ながら真面目にやっていたから、妹とペアを組み、西日本大会ジュニア演武の部で優勝した。今もメダルを持っている。
師範も熱い指導をしてくれた。わたしにとって親のように慕える存在だった。
なのに、中学2年生になったわたしはお稽古をやめると決めた。武具を着けての対戦がいくらやっても勝ち抜けず、精神的に疲弊していた。体が小さいせいなのか、押しの弱い性分を武道でも発揮してしまっていたのかは自分でもわからない。
厳しかった師範が、思いがけず引き留めてくれた。「せっかくここまで強くなってきたんやから。いつか対戦も勝てると思ってる」。そう言ってわたしを鼓舞してくれた。いつも立ったまま話す師範が、正座をしてわたしと目線を合わせ、肩を抱いてくれた。目をかけてもらっていたんだと苦しくなった。
それでも、やめてしまった。がんばりきれなかった。
このことは、恩ある人の期待に応えられなかった自分への強烈な嫌悪として、わたしのなかにずっと残っている。師範に申し訳ないと、今でも思う。「へたれ」って、こういうのを言うんだろう。
わたしは誰かを育てるなんてことには縁がない。けれど今回、うまく咲かないチューリップを見て師範の虚しさ、せつなさにちょっとだけ触れたような気がする。
せめてほかの教え子たちが強く、優れた選手になっていてくれますように。わたしのチューリップも、ほかの色(ピンク・黄色・赤)は誇らしげに咲いてくれますように。
散水のためにシャワーホースを握りながら、祈っている。
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