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小説に社会性を持たせるということ

 15歳の頃から、大江健三郎が好きだ。あいにく、1994年に彼がノーベル文学賞を受賞したことは小学生だったということもあって覚えていないが、初めて大江文学に触れるまで、僕は大江健三郎というのは道徳的で優等生のような小説を書く人だと思っていた。
 しかし、実際に大江文学を読んでみると、社会の不安な動きに怯える神経症の主人公が数多く出てきて、僕はこれにとても感銘を受けた。僕自身、世の中の政治の動きや社会問題を過敏に受け取る人間で、10代の頃は自分自身の個人的な悩み(友達がいないとか、早くセックスしてみたいとか)よりも、なにか世界が間違った方向に行って、自分がその犠牲になるという妄念が拭えなかったのだ。あの頃はニュースだけではなく、街で見かけるポスターすら怖かったのを覚えている。大江の小説は、そんな僕の気持ちにもろに刺さった。

 もちろん僕は大江健三郎だけを読んでいたのではなく、乱読多読で今までやってきた。そして大江文学に出会ってから何年もした頃、インターネット環境を手に入れて芥川賞の選評を見るということもするようになった。大江健三郎が選考委員をやっている時期の選評は、特に興味深く読んだのを覚えている。
 中でも、宮本輝の『螢川』と三田誠広の『僕って何』の選評は、当時の僕にはあまり理解できなかった。僕は宮本輝が好きだったのだが、大江健三郎は『螢川』に関してその描写力については認めたものの、「今、この時代に書かれた意味が見えない」と評したのだ。僕は「大江健三郎はそういうことを大事にするんだな」ということで印象に残っているのだが、三田誠広が学生運動について軽妙なタッチで書いた『僕って何』に関しては、大江健三郎は「時代を切り取っている」と評価していたのだ。僕は正直言って『僕って何』はそこまで大した作品だとは思っていなかったので、『螢川』の選評同様、心に残った。そのときの僕は、大江の言うことを信じて「小説には時代性がなければいけない」とは思わなかったはずだ。当時の僕はドストエフスキーやマン、サルトルといった時代の中で自己を見つめる作家も好きだったが、同じくらい志賀直哉や川端康成、永井龍男のような日々の営みのスケッチといった作風の作家も好きだったので、「まああの選評は大江の文学観であって、全面的に賛同する必要はないな」、くらいに思っていた。

 ところが、僕の中でなにが変わったのかはわからないけれど、最近は時代というものをかなり意識するようになった。今まで、「ドストエフスキーと志賀直哉を兼ね備えるというのはかなり無茶だな」と思っていたのだが、この時代、この空気の中で息をする主人公というのを書くのがむしろ自然なことになってきたのだ。半径5メートルの世界に、社会という背景が見えるような作品が書けるようになってきた。恐らくそれは、僕自身が年齢のせいか歴史の転換点のようなものを意識し始めたことが大きいだろう。今まで世の中の流れと個人の性質はそれほど関係がないと思っていたのに、世界の潮流のようなものをおぼろげながら掴めそうになっている。だからといって格差社会や過剰に潔癖になりつつ社会、それに政治の腐敗をことさらにクローズアップすることはないし、そんなことは僕にはできない。ただ、「時代の中に人がいる」ということを忘れずに小説を書いていきたいとは思っている。


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