本当のことを書く 小説の真髄
今回は自分の強味と弱味の話、「長所は短所と表裏一体」ということを話した上で、「小説を書くとは」ということを考えたい。
僕は12歳から20歳くらいまで、自分で言うのもおかしいけれど物凄く繊細で脆かった。いろんなことを深刻に受け止めすぎていたように思う。だから学校にも行けなくなったのだろう。いつもなにかに怒っていたし、なにもかも気にする自分の性格が嫌いで仕方なかった。もっと動じない人になりたかった。当時は飼っている猫が病気になるだけでも、死んだらどうしようとうろたえていた。
いろいろな理由が重なってのことだが、17歳のときに家出をして尼崎市で暮らすようになったのも、自分の根性を叩き直したいからだった。
そうして行った尼崎市ではいろいろな経験をしたが、最終的には初めてできた恋人との同棲をやめて失恋の大ダメージを負い、僕が当時のライブシーンに売り込んでいたデモテープを気に入ってくれた東京在住のドラマーに誘われる形で東京へ帰った。母親の病気が重くなり始めていたのも関係していただろう。
実家に帰ったのは2004年の3月だったのを覚えている。僕はしかし、クリスマス前に別れた恋人のことを考えていた。1歳年上の、とても優しい人だった。別れたのはほとんど僕のせいだったが、僕はその喪失感のせいで食事もなかなかできなくなっていた。そして最終的には、精神病院に入院することになった(この精神病院の話はいつか小説にしたい)。
僕は上記の1件から強くなれたのか。結論から言うと、なれていない。それよりも、むしろ物事を真に受けることを避けるようになった。飼っている猫が死んだときも、母親が死んだときも、魂の双子と言える友人と決別したときも、僕はヘラヘラしていた。僕がXで巨乳の女性やプロ野球について語っているときは、たいてい、実生活で傷つきそうになっているときだ。そういうとき、僕は真正面から傷つけなくなった。友人知人たちが仕事での失敗や私生活でのゴタゴタで力を失ったり凹んだりしている中、僕は異常なタフネスで平静を装えるようになったのだ。でもこれは、映画『ドライブ・マイ・カー』の「傷つくべきときに傷つかなかった」という主人公と同じだと思う。
しかし小説の書きかたの真髄というのは、エンタメだろうと純文学だろうと、「自分がつかんだ、自分だけの本当のことを書く」ということではないだろうか。僕が尊敬するmikkyさん(Xアカウント、@0217_beautiful)も、「本当のことを書くことを目指している」と言っていた。大江健三郎『万延元年のフットボール』でも、「自身でさえ忘れている真実」という言葉が出ている。これに迫れるかどうか。僕の性格や生きかたを考えると難しいが、避けては通れないだろう。
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