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得意なことの基準

以下、思考の書き出しです。

書くことは人より得意だと思っていたけど、コンスタントに書くことが出来ないのなら、それは「得意」とはいえないんだろうか。

私にはクリエイティブ系の職に付いている知人が多い。
そういう私も、現在はそういう仕事をしているといえばしているけれど、それは私がやりたかった職ではなく(そもそもやりたい仕事もなかった)、ただ会社が私を雇ってくれているので、お給料のために働いている、といったあんばい。

今やっている仕事は、私の得意分野でもなんでもない。
ただ自分に器用貧乏なところがあり、教えてもらううち、見ているうちにある程度のことはこなせるようになるタチなので、なんとか今までやって来ているだけに過ぎない。
だから、ほんとうにこの仕事がやりたくて職に就いた人にはこの先も情熱も技量も到底及びがつかない。
「いないよりはマシ」という程度の人材止まり。

得意を仕事にしている私の知人たちを見回すと、例えば子供の時から絵を描くのが好きで、紙とペンさえあればそれが何かの余白だろうがなんだろうが、四六時中お絵かきをしているような人。
そういう彼、彼女たちは、デザイナーであったり、イラストレーターであったり、自分の得意をずっと伸ばして、それを技術と認められて、「絵の好きな子」から、プロとして報酬を得るまでの人になっている。
本人たちはどう捉えているのかはわからないけど、それは本当にすごいことで、誰にでもできることじゃない。

で、なぜ私がそういう知人たちの話をしたのかというと、別に彼や彼女に嫉妬や焦りの感情を抱いて、「自分も何かしなくては」と思ったからではない。
そういう友達は誇らしいし、努力をこの目で見て来たので、自分のことのように嬉しい。

私の「得意」と、彼らの「得意」、純粋に、どのくらいの差があるのかなという疑問がある。
「寝食惜しんでもやりたいことが自分の人生にある人」というのが、人より一歩抜きん出たことをやるものだ。

遊びに行くより、ご飯を食べるより、寝る間を惜しんでも、絵を描きたい、音楽を作りたい、文章を書きたい、研究したい、作品を作りたい、

「娯楽に満ちた現代で、わざわざ本を読むという時点でそれは才能だし、何かを差し置いてまでそれがしたいというなら物書きの素養はある。あとはコンスタントにかけるかどうか。それがプロとアマチュアの差」

スティーブンキングか村上春樹が、こんなことを書いていたような、キングだったかな。

結局私は、器用貧乏な自分の中で一番得意だと思っている「読書」と「作文」ですら、中途半端な部分で止まってしまっているのかもしれない。

原稿用紙をただの一枚も埋められない人も世の中にはごまんといる。
私は少なくとも、文章を作って埋めて行く能力はある。
活字の本など1ページも読めない、読んだこともない、図書館に足を踏み入れたこともないという人もかなりの数存在する。
私は少なくとも、書店や図書館に行けばわけもなく高揚して楽しくなるし、時間さえ許せば年間に100冊の本を読むことも、100本の映画作品を見ることもある。それこそ寝食惜しんで読書に没頭することもある。

でも、私みたいな人も、それこそこの世にごまんといる。
「書くこと」に情熱のある人は、とっくに一つ二つの作品を持っていてもおかしくないんだ。
もう30年も生きているし、作品の発信が非常に容易な現代日本に生きているんだから。
わたしの「得意」は一体どこまでいけるものなんだろう。
焦りとか、失望とかではなく、ただぼんやりと考えている。

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