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田舎への憧れを捨てたい

 小学生の頃、夏休みに、実家への帰省と称して新幹線に乗る友達がとても羨ましかった。新幹線に乗れること自体も羨ましかったが、それ以上に、コンクリートジャングルの地元を高速で抜けた先にあるという、「田舎の風景」を知っている友達に、熱い羨望の眼を向けていた。

 自分の祖父母は両方とも近くに住んでいたため、父が運転する車のなかで小一時間寝ているだけで会いに行けた。いざ帰省しても、街並みも家の周りとさほど変わらない住宅街で、小学生が渇望している刺激や新鮮味はなかった。

 今では街歩きが好きで、二三駅離れた街のちょっとした違いを面白がっているけれど、小さい頃は、東京と神奈川をちょっと行き来するだけではあまり違いを感じず、ワクワクしなかった。青葉区を東京だと思っていたし、二子玉は川崎だと思っていた。

 祖父母は優しかったので、孫らしく構ってもらった温かい思い出は、抱えきれないほどある。ある日、まだ赤ん坊の私の世話をする母が、姉の習い事のお迎えができなかったとき、軽トラで祖母が飛んできた話なんかは、何度聞いても愛に溢れていて面白い。

 ただ、夏休みが明けて、教室でクラスメイトから帰省物語を聞くたびにいつも、本やテレビで見た水田と山々がどこまでも広がる風景を、頭のなかのスクリーンにキラキラと投影していた。虫採りができる豊かな森、川魚が気持ちよく泳いでいる清流、風鈴がぶら下がる縁側、エトセトラ。「ぼくのなつやすみ」シリーズのような、「ひと夏の冒険」ができる場所。

 大学受験や就職のタイミングで脱・関東!と意気込んだりもしたのだが、色々あり、結局今に至るまで、憧れの「田舎の風景」は具体性を持ち得ていない。いつか、という気持ちがずっとあり、ただそれが実現しない分、よくわからいままストレージを圧迫するシステム部分のように、もはやファンタジーともいえる実体のない想像が膨れ上がっていく。

 憧れたまま死ぬのだろうか、と思うと怖い。だから、田舎への憧れを捨てたい。「田舎、住んでみたいなあ」と人に溢す日々を断ちたい。理想を積みすぎて、いつか勝手にがっかりしたくない。一回住んでみるのが一番の対症療法だと思うんだけど、そう簡単にできることでもない。せめてもの思いで、今年のお盆に5日間の東北旅を計画中。

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