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白藤

最近、『この記事が◯回見られました!』っていうお知らせがよく出て、「そうなんだ〜」と驚き、喜んでいます。
ありがとうございます!

私は子どもの頃からちょっと変わっていて、植物や天然石の言葉がわかります。
たぶん田舎で自然に囲まれて育ったので、こんな感じになったんだろうと思います。

まだ実家にいた頃、夏場に父が、庭の草花に水遣りを始めると、植物の悲鳴が飛んできて胸に刺さって、とてもしんどかったです。
父は「水やりゃいいんだろ」的に、大雑把にザーッと水をかけて、終わりにしてしまいます。
その最中の辛いこと、辛いこと。

待っててね、私やるからね、と伝えて、父が部屋に戻ると同時に庭に出て、「ごめんね、もう大丈夫だからね」と声をかけながら新たに水遣りを始めます。
日向が好きな子、日陰のほうがいい子、たくさん水を欲しがる子、水は少なめでいい子、みんなそれぞれ違います。一律ではありません。

水遣りを始めると、植物は心地良さそうに笑い出し、それが音符のようになって私の心に響いてきます。
どれくらい水をあげたらいいか、教わっていなくても、植物たちの声で自然とわかりました。


ある神社さまに、よくお参りしていました。
植物がたくさん植えられていて、その子たちに会うのも楽しみのひとつでした。
その中で、とても仲良しな白藤がいました。
真っ白な房が垂れ下がる姿は、凛として、可憐で、そして儚げで、胸打たれました。

藤の季節になると、白藤に逢いに、神社さまにお参りしました。

ある年、仕事が休みの日に、不意にその神社さまに行きたくなりました。
でも、数日前の休みにも行ったばかりだったので、「なんでかなぁ?」と思いました。
まあでも呼ばれてる感じだし、行くことにしました。

電車で10分、徒歩15分くらいで、神社さまに着きました。
そして、愕然としました。
私が着いたそのとき、白藤はチェーンソーで切られている真っ只中でした。
園芸業者さんは容赦なく、枝を切り落としていきました。
「やめて!やめて!」心の中で叫んでも、声には出なくて、行動にも移せませんでした。
私は立ち尽くして見ているしかできませんでした。

20分くらいで業者さんの作業は終わり、白藤の無惨な枝たちは、軽トラックの荷台に積まれ、あっという間に去っていってしまいました。

しばらく時間が流れました。
そして、白藤が最後の別れに、私を呼んでくれたんだな、と思いました。
でも最後の最後で、私は救えなかった。
社務所に抗議しようかという衝動に駆られましたが、思いとどまりました。

その後、その神社さまは大きく庭を改築しました。
白藤はその計画に要らなかったので処分されてしまったようです。
でも、私は、新しい庭園が人工的すぎて、そしてどこか自己満足的な空気が感じられて、好きにはなれませんでした。
だんだん、その神社さまにお参りすることはなくなっていきました。

白藤のことを時々、思い出します。
私が白藤を手に入れたときには、きっと、あの子が来てくれると思っています。
繋がっているから、大丈夫。


読んでくださって、ありがとうございました。
また明日。
おやすみなさい。

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