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ユーグレナ社長・出雲充さん 奇跡を2回起こす 日経新聞より

ユーグレナの出雲社長、以前、共同で創業した会社と同じ、インキュベーションオフィスに、上場される前に、入っておられました。渋谷、桜ヶ丘町のハッチェリーという施設です。公募してないので、紹介制(笑)というか、コネと、オーナーに気に入ってもらわないとダメなんです。それはさておき・・・この上場される前、(もう上場されることが分かって)そのオフィスを出ていかれる際、律儀に菓子折りを持ってこられ、ご挨拶をさせてもらったのを鮮明に覚えております。

日経の夕刊の記事です。後で読みたいので、自分のためにクリッピング。経営者として、尊敬しますし、私も成功させたい一つの理由は、こんな私でも頑張れば、やれるんだ。ということを、日本とアメリカの若い世代に伝えたい。なぜ、アメリカと日本なのか? 私は、この2つの国に育ててもらったからです。出雲さんは、すごいです。いつか、再開できる日を。「出雲社長、覚えておられますか?インキュベーションオフィスを出られる(卒業ですね)日に、ご挨拶させてもらいました。」と。私もがんばります。奇跡は、おっしゃるように、「誰でも必ず努力し続けられます。」なんですね。また、501社目が伊藤忠商事というのも、私の前職(CTC:伊藤忠テクノ)というのも、色々考えさせられます。伊藤忠は、近江商人の発祥の地。次回は、近江商人について語ります。伊藤忠にもお世話になりました。というか、これからも(これからのほうが)お世話になりますのでよろしくおねがいします。

  「魔法の食べ物」と呼ばれるユーグレナ(和名ミドリムシ)で、健康食品や燃料など新市場を切り開いてきたユーグレナ創業者社長の出雲充さん(41)。2020年の創業15周年を機に「もうミドリムシにこだわらない」と決めた。目指すは持続可能が当たり前の世界の実現だ。

栄養失調の問題をユーグレナで解決したいとの思いからスタートし、以来「人と地球を健康にする」を企業理念に事業を営んできました。その思いは変わりませんが、考えに考えた末、企業理念を廃止しました。「ミドリムシ」の会社から「Sustainability First(サステナビリティー・ファースト)」の会社へアップデートします。

企業理念とは「to do」(する)。リーダーが理念や方針を示して社会を前進させていくのが従来のやり方でした。でもこの15年間で世界の環境や考え方が大きく変わり、残されているのは複雑で答えのない課題ばかりです。

8年前「僕はミドリムシで世界を救うことに決めました。」という本を出しました。今なら「○○で世界を救う」。○○は何でも構わない。一人ひとりが「to be」(ありたい自分)を表現する時代です。

僕の「to be」は世界で最も困難な場所で2回奇跡を起こすこと。1回ならまぐれと言われるから、2回起こします。1つ目の奇跡は、僕の人生を変え、創業のきっかけとなったバングラデシュの栄養失調をなくす。2つ目はバイオ燃料で日本のエネルギー問題の解決です。

「あのユーグレナ社ができたのか。だったら僕もやってみよう」。1人でも後に続いてくれたら、こんなに喜ばしいことはありません。バングラデシュの子どもを救えたら、必ず素晴らしい才能が開花します。その1人が有名なピアニストとして来日する。僕は会場の後ろでそっと聴く。いつかそんな日がきっと来ると信じています。

  19年に最高未来責任者(CFO)に高校生を迎えた。「サステナビリティー・ファースト」の一環だ。

18歳以下が取締役になれないなんて、どこにも書いてありません。僕はもう若くない。僕が理解できない世界に、素晴らしいアイデアがあるはずです。

初代CFOの小沢杏子さんには相当鍛えられました。会議で「出雲さん、結構ペットボトル使うのですね」と言われ、慌ててマイボトルにしました。

ゴミ箱も注意されました。ゴミ箱とは意外でした。どのビルに引っ越しても、清掃の方から「あんたの会社が一番分別している」と褒められていただけに意外でした。でも小沢さんはプラスチックゴミの量の多さを見逃さなかった。

自分が最高だと思っていたものを真っ向から否定される。もう最高です。この話を他の会社の人に話すと「ぜひうちの会社でもやりたい」と必ず言う。でも1年以上たった今、後に続く会社はありません。

幼少期を過ごしたのは東京の多摩ニュータウン。サラリーマン家庭に生まれ、何不自由なく育った。人生を変えたのが大学時代のバングラデシュ訪問だった。

団地がきれいに立ち並び、歩道と車道が完全に分離されている。安全ですばらしい街。でも、僕は怖かった。何者でもなく、平均の中に収れんされ、忘れ去られやしないかと。

だから常に「人とは違う」何かを見つけようとしていました。近所の沼からザリガニを捕まえてきて家のバケツで養殖し、高級レストランに売ろうとしたこともあります。

高校時代に描いていた未来予想図は国連への就職。国連職員の略歴を調べ、その人が勉強してきたことをまねしていました。そんな緻密な計画は、大学1年のバングラデシュ行きで、すべて吹き飛びました。

なぜバングラデシュを訪れたのか。テレビで難民問題の番組を見て、あまりに多摩ニュータウンと世界が違うので、この目で確かめたかったからです。その国がまさか、魔法の食べ物を追いかける人生へと導くとは。

現地で、おたまじゃくしがカエルになるように全く違う自分に生まれ変わりました。頭で考えていても何も始まらない、とにかく現場に行く。極端な信念を持つようになりました。

  栄養失調の問題を解決するビジネスをやりたい。帰国後は栄養素のことばかり考えるようになっていた。
偶然にも、後輩の鈴木健吾(創業メンバーで現在の研究開発担当執行役員)が知っていました。それがユーグレナです。大量培養すれば食料や燃料として利用できるらしい。すぐに世界中の研究者が培養に失敗していると知りましたが、諦められなかった。「35歳でユーグレナとともに立つ」。この時21歳。ユーグレナが地球を救うという妄想しかありませんでした。

「ユーグレナ貯金」のため東京三菱銀行に就職しました。35歳までは勤めるつもりでしたが、23歳で退職を考えます。あまりに居心地がよくて、これ以上いたらユーグレナを諦めそうになっていました。ここは勝負だ、いやいや23歳で挑戦するのは無謀すぎる。辞めようとしたら恐怖に襲われました。

弱った僕の背中を最後に押してくれたのは、父親のように慕っていた出版編集者の原孝さん。いつかは所詮いつか。絶対に始まらないと言います。あれほど混乱していたのに辞めたら3日後にはケロリ。以来「悩むぐらいなら、やってみる」を人生の憲法にしました。

知人の会社を手伝いながら、夜行バスで全国のユーグレナの研究者を巡り続けた。
3年間、銭湯の記憶しかありません。先生が研究室に来るまで時間を潰した場所。大量培養のアイデアをひらめいたのも、銭湯でした。

2005年12月。ついに食用としての屋外での大量培養に成功しました。喜んだのもつかの間。富士山の山頂にたどり着いたと思ったら、まだ高尾山の頂上だった。上を見上げたら険しい山道がどこまでも続いていたのです。

  ユーグレナの大量培養の成功に喜んだのもつかの間。2008年までの3年間、誰からも相手にされなかった。

こんなに大変だと事前に分かっていたら、起業なんてしていません。サプリメントを薬品の卸会社や小売店などに片っ端から売り込みましたが、ことごとく断られました。「ミドリムシ? イモムシみたいで気持ち悪い」「実績がないのに扱えないよ」。農作物ですから、天候などの環境によって含まれる栄養素のグラム数が変わります。誠実に説明すればするほど駄目だと言われました。

500社と面接し、500社落選。超楽観的な僕も、さすがに傷つきました。浪人生でも500の大学に願書を出さないでしょう。海外の反応も冷ややかでした。「失敗しすぎて、ついに夢でも見たの?」。また無駄な研究をしているという風に受け止められました。

ユーグレナ社の経営危機は年々深刻さを増す。何度もキャッシュが底をつきかけた。

収益源は売れないサプリメントだけ。資本金を切り崩し家賃や仲間の給与に回しました。タイムリミットが刻一刻と近づき、賃金カットや希望退職に踏み切らざるを得なくなりました。僕のユーグレナ人生に皆を巻き込んでしまい、申し訳ない。隠れてよく泣いていました。

08年5月、501社目にして、ついに認めてくれる企業が現れた。伊藤忠商事だ。

カルシウム含有量は。手持ち現金は。経営計画は。担当の伊東裕介さんはユーグレナ社について、それは詳しく聞いてきました。出資が決まるまで1年間、口頭試験を受けている感じでした。

伊東さんが最近、出資を決めた本当の理由を明かしてくれました。僕に内緒で15人の仲間全員と会っていたのです。社長は本気でバングラデシュの人を健康にしたいのか。僕が伊東さんに伝えたことと日ごろ仲間に話していることは一致しているか。一人ひとりに確認していたそうです。「ベンチャー企業はいくらでも嘘がつけるからね」と。

出資が決まった途端、売り上げは一気に跳ね上がりました。直後に起きたリーマン・ショックの記憶がほぼありません。

振り返れば、500社落選は最高の体験でした。決定的に他の人と違うといえるものを得られました。もう怖いものはない。傷つくこともない。

「よく心が折れませんでしたね」と言われます。僕に特別な才能や根性があるからか。いやいや違う。たった2つのものを見つけたら、誰でも必ず努力し続けられます。メンターとアンカーです。

メンターとは師匠。僕にとってはグラミン銀行創設者のユヌス先生です。貧困が世代をまたいで再生産されないよう個人に少額のお金を貸し、ビジネスをしてもらい自立を促す。80歳を超えた今も頑張っています。

師匠を思い出させてくれるモノ(アンカー)は先生からいただいたTシャツです。毎朝クローゼットのシャツを見て出かけ、帰宅してからもう一度見る。内側からやる気が込み上げてくるのです。



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