見出し画像

アンチクロノス  時間を哲学する その1

◇アンチクロノス


この論考の目的:1)デカルトのコギトエルゴスム(「わたしは考える。ゆえにわたしは存在する」)に新しい光を当てデカルト再読のキッカケを提供する。2)近代的な時間概念を「ふりだし」に戻して相対化する。そしてそこから再発見できるものがあるかどうかを確認する。3)プラトンのイデア論を再利用しながら形而上学を再構築する。4)意味不明なもの。辻褄の合わない話。ナンセンス。ダダ。難解と思われている詩的言語行為。それらに理解の余地をつくる。輪郭だけでも。

1.
デカルトの哲学を教科書的に解説するならば「心身二元論」もしくは「物心二元論」となる。しかしこのレッテルは後世の人々がデカルト主義に与えたものと考えなくてはならない。現代思想を通過するとデカルト本人とデカルト主義は区別される。私もその影響下でデカルトの読み直しを続けている。確かにデカルトは実体を二種に分類した。物質と心。人間で言えば脳を含め身体器官は物質の次元。感覚や想像は身体がなければ働かないので物質の次元となる。それに対する心は「それが何であるか」を見定める側。
デカルトのいう心は「魂」と言い換えた方が良い。死んでも残る実体の事。実体として残るけれど物質ではないもの。言葉としてはすでに矛盾している。が。彼はそこに形而上学の基礎を置こうと苦心した。ここは哲学的な議論に慣れていないと読み取りにくい。私はそこに仏教の空観を援用して考えている。「空」は物質としては有ではないけれど実体として無と断定できないことを表そうとした概念。デカルトはキリスト教的な霊や魂という言葉を使って意識の奥にあるもの(もちろんフロイトのような無意識ではなくもう少し浅い領域。「記憶の棲み処」のような場所)に迫ろうとしている。
さらにデカルトは次元の異なる物質と心がどのように影響し合っているのか。というエリザベト王女からの質問に答えて第三の次元を予告する。心身結合の次元。晩年医学に熱中し解剖学にも携わったデカルトは成果をきちんとした形に残せてはいないけれども心身結合の謎に挑んだ事は確かだ。その意味でデカルトの思想の射程もデカルト主義的二元論をきちんと超えていた事になる。
2.
「わたしは考える。ゆえにわたしは存在する」。これも誤認が多く一般的な説明では三段論法として解釈されてしまう。例えば「わたしは考える。考えるためには存在しなければならない。だからわたしは存在する」。このような三段論法ではデカルトがたどり着いた思索のダイナミズムは失われてしまう。「わたしは考える。ゆえにわたしは存在する」を漢字で表記するとするなら「思考即存在」。「ゆえに」を「即」と言い換えた方が良い。さらに「わたし」という主語は不要。『方法序説』はフランス語で書かれたために主語を省くことができなかった。しかし内容をきちんと理解しながら読めばやはり「思考即存在」である(ちなみに「思考即存在」という言い回しは中国語では使用されているようだ)。
生活は切れ目のない評価の連続である。デカルトは未婚だったがフランシーヌという娘がいた。しかし五歳の時に猩紅熱で命を落としてしまう。こんな悲しいことはないと気丈なデカルトも人目を憚ることなく涙を流す。魂の不死を信じて生涯カトリックを信仰した事もまたデカルトの生活。そんな彼をして真理の探究を続けさせたものはなんだったのか。世界の全てを認識したい。そしてそれを説明したいという求道心。魂の不死について人にも分かりやすく話したい。その情熱がデカルトを突き動かしていたのではないか。
3.
それでも論理的な頭の持ち主は「思考は思考」「存在は存在」として分けて考えてしまう。思考を「心」に置き換え存在を「身体」に置き換えて心身二元論にして考えてしまう。デカルトの思考は身体を必要としない。思考即存在は彼の形而上学の基礎部分である。これは不死の魂でありそれを唯一保証できる存在は神である。
「知覚する」「感覚する」「想像する」「気を使う」「意識する」など。そうした脳の働きが及ばない場所でそれでもなお「わたしは存在する」としか言えないような思考。それがデカルトの思考即存在である。もはや身体からは離れている。幽霊である。いや幽霊とも言えない。だから空なのだ。身体論はこのデカルト的思考をもてあましてしまう。メルロ=ポンティなどの批判もそこにある。しかし身体論でデカルトを批判してもデカルトの問題は少しも影響を受けない。物は物で実体であるし身体は身体で実体だ。それとは別の次元で思考は実体であるとしなければならない筈だと。
プラトンのイデア論とデカルトの思考は深く関連している。形而上学の基礎であるから誰にでもすぐ分かる話ではないとデカルトも話すのを躊躇した問題。デカルトのコギトエルゴスムは物の次元で語ることができない。


4.
日本人が目には見えない実体を表すときにいちばん耳馴染みのある単語は「気」であるかも知れない。脳よりも速く身体を動かしている何かがあるという研究もある。生物学の知見を借りて考えればそれはあり得るだろうと私も思う。細胞一つ一つは人知れず反射的に活動しているように感じるからだ。時に脳細胞よりも賢く。しかしそれはあくまで推測である。意識は脳を活用して身体全体をコントロールしようとするが実際はそれほど上手くいかない。そこに訓練と習慣が要請されてくる。人は簡単には言葉を流暢に話せるようになったりしない。バクテンや逆立ちがすぐにできたりするわけではない。だから「気」のようなものが働いていると考えないと落ち着かない。しかしこの論考では言葉で説明できない領域には踏み込まない。
5.
デカルトは形而上学の他に屈折光学と気象学と幾何学についての試論をまとめた。方法序説はこれら三試論の序文に相当する導入部分である。だから形而上学だけに囚われているとデカルトの全体を見失う事になる。デカルトの弟子のひとりル・ロアは形而上学の部分は捨てて科学だけを取り出し唯物論へ傾斜していった。これによってデカルトは唯物論者の親分であると誤認された。デカルト主義の始まりである。同時代のパスカルは「私はデカルトを許せない。彼はその全哲学のなかで、できることなら神なしですませたいものだと、きっと思っただろう」と『パンセ』の中に記している。パスカルもこの点では誤解しているわけだ。しかしのちにパスカルはデカルトと会って気象について語り合っている。科学の分野ではおそらく意見が一致していたであろう。
6.
唯物論を採用した場合の事をもう少し検討する。仮にこの世界は物質のみで構成され目には見えない魂や神の存在はことごとく幻であるとしよう。そうなると人間の感情や理性の働きも機械で出来ていることになる。人工知能と同じ議論。AIが人間のカウンセラーになり得ることをテレビ番組が紹介していたがそれなどは心が物質と同じように数値化できることを示唆している。それでも問題は残る。そのような仕組みが施された世界の中で「いったいわたしとは何者なのか?」という問い。固有な存在である筈の「このわたし」についての謎は少しも解明できない。「わたしはどこから来たのか?」「そしてどこへ行くのか?」。唯物論は冷たい答えを用意するだろう。「君を形づくっている組織が壊れたら動かなくなる。そしてその組織が同じ条件で組み立て直されないかぎり君の存在は消滅したままであろう」。デカルトの抵抗はここから生じているのではないか。そんなバカな。わたしが機械のように壊れたら永久に消滅する? わたしは消えないぞ。わたしという思考は残るのだ! 
7.
唯物論は唯物論でとても理にかなった議論である。しかし究極まで煮詰めると反転して唯心論になってしまう。デカルトの方法はある意味でそれを狙ったとも考えられる。物を割ったり合わせたり。物の有り様を色や形や温度や重さで調べていく。現代の物理学が量子力学や相対性理論にまで行く。生物学がDNAの仕組みを解明しようと努力を重ねる。光子の粒の数が物の質量であるとまで解明している。ところが光には重さがない。そして光速は一秒に地球を七周半できる。光速を超えるスピードはない。分かる。分ける。を積み重ねて科学はどこまでも進歩していく。デカルトは科学が扱う世界はそれでよいと考えている。自律した法則が働いているのだからそれを説明できる数式と言葉があればよいと。
ただ問題はそれだけにとどまらない。それを認識するのは「わたし」なのだからわたしの存在が確実に保証されなければ物の世界はすべて泡のように消えてしまうだろう。ここでの語り手はデカルトであるが本当はデカルトの皮を被った私だ。私は古賀である。しかし本当は古賀の皮を被ったわたしだ。じゃあ。このわたしとは一体誰? 唯物論は唯心論になり唯心論は独我論になる。地球が太陽の周りをまわり。太陽が銀河の渦の中でまわり。銀河が銀河団の中で流れている。この宇宙の仕組みがどうであれそれを説明しようと試みているデカルトとしての古賀としてのわたしはどこにもいない。宇宙の限界でそれを見ているのがわたしだから。宇宙の中には居られない。そんなわたしが物質であるわけがないのだ。
8.
作者は死んでも作品は遺る。作品が消えても作品の魂はどこかにある。そのように考える人は少なくない。芸術家はみなそのことを直観している。プラトンのイデア論。イデアの世界は個物のようには感覚できない。しかし事物を形づくる元型としてどこかになければならない。人はそのイデアを想起という仕方でこの世界に再現する。想起できるということは「元はどこかにあった」という事。
デカルトはプラトンの影響下で「わたしは存在する」と云っている。彼はスコラ哲学に流れているアリストテレスの哲学を批判しようとしている。プラトンの思想から変質して出て来たアリストテレス。その考えを研究すればデカルトの狙いも少し鮮明になってくる筈だ。有名な「アテナイの学堂」の絵には師プラトンが天上を指差し弟子アリストテレスが地上に手をかざしている様子が描かれている。この絵に象徴されているようにアリストテレスはイデアの世界を個物の中に見なくてはならないと考えていた。ここでデカルト自身の言葉に耳を傾けよう。岩波文庫の『方法序説』から。翻訳は谷川多佳子氏。
《わたしは一つの実体であり、その本質ないし本性は考えるということだけにあって、存在するためにどんな場所も要せず、いかなる物質的なものにも依存しない、と。したがって、このわたし、すなわち、わたしをいま存在するものにしている魂は、身体〔物体〕からまったく区別され、しかも身体〔物体〕よりも認識しやすく、たとえ身体〔物体〕が無かったとしても、完全に今あるままのものであることに変わりはない、と。》(47頁)
アリストテレスなら身体の中にしか魂は宿らないと考えたであろう。デカルトはそれに異議を唱えている。
9.
デカルトは17世紀の人である。スコラ哲学をフランスの有名な学院で学ぶ。しかしそこに有益なものはなかったと彼は判断した。おそらく当時の学術界が長い伝統に甘えてなんら革新的な議論を展開できなかったからではないか。もとを辿ればスコラ哲学はキリスト教神学をアリストテレスの哲学によって補強しようとして始まったもの。デカルトの目にはアリストテレスの考え方の中に何か大きな見落としがあったと映ったのかも知れない。ともあれ彼にとってプラトンへの回帰は大きな思想的な課題だったに違いない。
私はその事情を詳しく調べようと思い東京大学出版会が発行している『講座哲学 1巻 哲学の基本概念』(1973年)を読んでみた。東大の教授をはじめ国立大学の哲学の専門家たちが論文を寄せそれに対する批判的論文を書きさらに数人で討議をするという仕組みで書かれている論文集である。例えば黒田亘氏の「形相認識と経験」という論文に対し井上忠氏が「〈このもの〉とは何か」という批判的論文を書く。そして黒田井上両氏に加え中村秀吉氏と山本信氏が討議に参加して黒田井上両者の主張について細かく検討を加えるというもの。
形相と質料はアリストテレスの哲学においてもっとも有名な主要概念である。ところがこの四者の討議を読んで見るとその概念の使い方や意味合いがそれぞれ微妙にずれていて一体「形相」が何を指しているのか段々分からなくなってしまう。ああこれが「煩瑣」というやつだな。そのような細かい話に意味があるのか。スコラ哲学を別名「煩瑣哲学」と呼ぶのはこういう事情から。だとすればデカルトが無益と一蹴するその気持ちが少し分かったようにも感じる。
とは云えそういう私も実は煩瑣な議論を好物にして生きている。意味がありそうでない不毛な議論を自分の中に再現している時は夢中になっている。ゲーマーがゲームに夢中になっているように。
10.
「形相」という言葉は一般の理解も進んでいないように私には思われる。だから「イデア」という単語だけを使用する。イデアの概念にはピタゴラス教団が深く関わっている。例えば点の定義は「面積をもたない位置」。実際に描こうとしても不可能である。仮に「・」という図形を描いてもこれは定義上の真実の点ではなく「ごく小さな黒い円」となってしまう。目に見える図形と頭の中で考える図形は区別される。ピタゴラス教団では頭の中の定義上の点をイデアとした。このピタゴラス教団の教説を道徳上の問題にまで広げたのがプラトンのイデア論である。「善そのもの」や「美そのもの」という考え方がそこから出て来る。
勢いプラトンの『国家』(岩波文庫。藤沢令夫訳)を読み直してみるのも良い。特にその6巻と7巻の話は何度読んでも新鮮である。引用する。第6巻の18章から。
《「多くの美しいものがあり」とぼくは言った、「多くの善いものがあり、また同様にしてそれぞれいろいろのものがあると、われわれは主張し、言葉によって区別している」「ええ、たしかに」「われわれはまた、〈美〉そのものがあり、〈善〉そのものがあり、またこのようにして、先に多くのものとして立てたところのすべてのものについて、こんどは逆に、そのそれぞれのものの単一の相に応じてただ一つだけ実相(イデア)があると定め、これを〈まさにそれぞれであるところのもの〉と呼んでいる」「そのとおりです」》
ソクラテス(ぼく)の対話の相手はグラウコン(プラトンの兄)である。藤沢令夫氏はイデアを「実相」と訳している。
《「さらにまた、われわれの主張では、一方のものは見られるけれども、思惟によって知られることはなく、他方、実相(イデア)は思惟によって知られるけれども、見られることはない」「まさにそのとおりです」》
11.
「イデアは思惟によって知られるけれども、見られることはない」というプラトンの規定はそのままデカルトの「考えるわたし」に符合する。BC400年の思考とAD1600年の思考が共鳴している。2000年の時を超えて。
《「ところでわれわれは、見られるものを、われわれ自身の何によって見るのかね?」「視覚によってです」と彼。「それならまた」とぼくは言った、「聞かれるものを聴覚によって聞き、その他すべて感覚されるものを、他の感覚によって感覚するのだね?」「それに違いありません」「それでは」とぼくは言った、「君は、いろいろの感覚の作り主が、見ることと見られることに関わる機能を、どれだけ特別に贅沢なものとして作ったかということに、気づいたことがあるだろうか?」「いいえ、ぜんぜん」と彼。》
視覚。聴覚。嗅覚。味覚。触覚。五感の中でもとりわけ視覚に注目している。
《「それなら、次のことを考えてみたまえ。──聴覚と音声の場合、一方が聞き他方が聞かれるために、何か別の種族のものをさらに必要とするということがあるだろうか? それが第三者としてそこになければ、聴覚は聞くことができず、音声は聞かれないことになる、というようなものが?」「何もありません」と彼。「またぼくの思うには」とぼくは言った、「ほかの多くの感覚機能の場合にも──いかなる感覚機能の場合にも、とまでは言わないにしても──そのような別のものを何も必要としないのだ。それとも君は、何かそういう例を挙げることができるかね?」「いいえ、できません」と彼は答えた。》
音が鳴れば耳はそれを聴き熱があれば肌はそれを感じ臭い物があれば鼻はそれを感じる。このように感覚とその対象の間には他に媒介するものがないということ(しかし実際は空気や水が無ければ音は伝わらない。そのことはあえて無視して話を聞いておこう)。
《「ところが、視覚とその対象に関わる機能は、そういうものを別に必要とするということに、思い当らないかね?」「どのように必要とするのでしょう?」「目の中にちゃんと視覚があり、それをもつ者が視覚を用いようとつとめても、そして見られるものには色どりが現にあるとしても、しかし、本来まさにこの目的のために特別にあるところの第三の種族のものがそこに現在しなければ、君も知っているように、視覚は何ものも見ないだろうし、さまざまの色どりも見られないままでいるだろう」「その特別のものと言われるのは、いったい何でしょうか?」と彼は言った。「君が光と呼んでいるものだ」とぼくは言った。》
*余談
意識と目の関係は深い。目が覚めると意識が働き始める。その時視覚がこの世界の同一性を確認する。また散歩をしながらあたりを見渡しているとじぶんの意識が目と密接に結びついていることがわかる。耳を塞いで沈黙しながらひたすら観察に徹する。そうすると「見る」という行為の中にだけ意識を感じる。意識があるとは視覚が機能していることなのではないか。かなしばりになると全身の力が抜け聴覚が効かなくなり嗅覚も衰える。しかし視覚だけは働く。この経験から意識が最後に残すものが視覚なのではないかと推論される。但しこれは視覚障害のある人には適用できない。その場合意識は聴覚と深く結びつくのかも知れない。
12.
デカルトは詩をとても愛好していた。自身でも詩を書いた。哲学者よりも詩人の方が真理に近いと思っていたくらいである。デカルトは1619年11月10日に学問上の重大な悟りを得る。そしてその夜連続して三つの夢を見る。大風に吹かれて礼拝堂の壁に吹きつけられる夢。雷鳴に起こされ無数の光の粒を見る夢。辞書と詩集が示され詩集を選ぶ夢。デカルトは言葉の説明である辞書よりも詩集を選んだ。直観の働きを優位に置いた証拠となるエピソードだ。一般に「炉部屋の思索」として有名なこの出来事から今年でちょうど400年。その意味でもデカルト再読には大きな意義がある。『世界の名著22 デカルト』(中央公論社)の中にある野田又夫「デカルトの生涯と思想」参照。
プラトン『国家』の第6巻では視覚が注目されそこから媒介者としての光が論じられていた。デカルトが最初に執筆した論文もまた『世界論または光論』である。光という現象に対する関心とその探究がどの哲学者にも共通したものかどうかは分からないが少なくともプラトンの『国家』とデカルトの『世界論』は光をめぐる考察においても繋がっている。これは実に面白い共通点だ。
「相」という字が「木」と「目」から成り立っていることからも分かるように東洋思想に流れている「相」という言葉もまた視覚的な概念だ。ピタゴラス教団は幾何学的図形をイデアとした。だからイデアを「実相」と訳したのは理に適っている。この事をもう少し掘り下げるために『国家』の第7巻を読む。
13.
プラトン『国家』第7巻は洞窟の囚人の譬えから始まる。生まれてからずっと影絵を見せられて育った囚人たちはそこに映る影が現実の物だと信じて生きている。なぜなら光のある方角や影の本体の方を一度も見ることができない設定になっているからだ。物音や喋り声も洞窟に反響してまるで影から出ていると思い込んでいる。実によくできた譬えである。ソクラテスは云う。
《彼らの一人が、あるとき縛めを解かれたとしよう。そして急に立ち上がって首をめぐらすようにと、また歩いて火のほうを仰ぎ見るようにと、強制されるとしよう。そういったことをするのは、彼にとって、どれもこれも苦痛であろうし、以前には影だけを見ていたものの実物を見ようとしても、目がくらんでよく見定めることができないだろう》
ここではソクラテスの口を借りてプラトンの教育論が展開されようとしている。「目を開く」ことの難しさ。真実を見ることの怖さ。
《そのとき、ある人が彼に向って、「お前が以前に見ていたのは、愚にもつかぬものだった。しかしいまは、お前は以前よりも実物に近づいて、もっと実在性のあるもののほうへ向かっているのだから、前よりも正しく、ものを見ているのだ」と説明するとしたら、彼はいったい何と言うと思うかね?》
囚人の立場を想像してみる必要がある。
《そしてさらにその人が、通りすぎて行く事物のひとつひとつを彼に指し示して、それが何であるかをたずね、むりやりにでも答えさせるとしたらどうだろう? 彼は困惑して、以前に見ていたもの〔影〕のほうが、いま指し示されているものよりも真実性があると、そう考えるだろうとは思わないかね?》
我々が現実だと信じて感覚している世界はもしかしたら仮の世界(影)なのかも知れない。プラトンが示唆しているのはイデアから観たらこの世界は仮想であるという知見だ。これこそ実相であると示されてもそれが何のことだか分からないということは大いに起こり得る。
14.
『聖書』に触れたい。「創世記」には次のようにある。
《初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。》
さてこの一文の翻訳の問題について考えてみたい。これはキリスト教が旧約聖書と名付けている内の「創世記」の出だしの一文である。原語はギリシャ語で書かれた。しかしさらにその大元はヘブライ語であるから翻訳の翻訳ということになる。ユダヤ人はギリシャ語に訳されたものを正典とは認めなかった。だからギリシャ語で記された「創世記」を有難いものと受け止めるのはキリスト教徒の側にしかない。
日本語でそれを読む時その事実が消えてしまう。ユダヤ人の教えがそこには書かれていると思ってしまう。ヘブライ語には時制がなくギリシャ語には時制がある。だから「初めに」という訳や「創造した」「動いていた」「光ができた」という訳はもしかしたら間違っているかもしれない。
時制つまり過去現在未来を区別するという発想がのちの文化に大きな影響を与えてしまった。ギリシャ語の問題が世界史をある方向へ引っぱって行った。この事はこれから何かを考える時にずっと頭に置いておいた方がよい。
池澤夏樹『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』(小学館。2009年)を参照する。この本の中で秋吉輝雄氏は聖書学の観点から次のように云っている。
《日本語訳でも、明治以降ずっと「初めに、神は天地を創造された(元初に神天地を創造たまへり)と訳して、ギリシャ流の時間意識を受け容れてきた。そもそも、この「初めに」(ベレーシト)というヘブライ語を「初めに」と訳すこと自体大いに問題があるのです。仮に「初めに」と訳したとしても、続く言葉は、「神は天地を創造され(た)」ではなくて「神は天地を創造(す)」となるはずです。》
15.
次にその内容を問題にすると。ここでは世界創造の話をしているわけだが。近代以降の人類は地球が球体で太陽の周囲を一年かけて回っていることを知っている。だからこの創造が宇宙を作った話ではないという事に気が付いてしまう。天と地をつくる。水があり闇がある。光を呼ぶ。そのあと空と海と陸。これは明らかに地球を。しかも球体ではない平たい地面の地上を作っている。さらに第一日から第六日まで神は仕事をして第七日で休むと記されている。という事はすでに地球の自転を前提としなければカウントできない「一日」という概念が必要だったことになる。「一日」という概念は太陽が西に沈み再び東から昇って来るという天体の運行がなければ作れない。天地創造中にはこの概念は存在できない。
16.
「一日」という単位を人類が基準として持つための条件は太陽の存在と地球の自転がどうしても必要である。近代人はそれを知ってしまった。だから「創世記」の記述と現実の観測が矛盾することに頭を悩ませることになってしまった。ガリレオの時代。それはまたデカルトの時代でもある。彼らは決して無神論者ではなかった。むしろ教会に対する忠誠心は強かった。
私はこの矛盾のルーツに聖書の翻訳の問題があると考えた。ユダヤ人が伝承して来た世界創造の物語。それをヘブライ語のままで指導者の口から聞いているうちは何も矛盾しなかった。例えば仏教においても経典の内容は近代人の目からは矛盾だらけに見える。しかし仏教徒はそれを師から弟子へと連綿と伝承して来た。「聖典」は論理整合性にそれほど重きを置いていないように見える。
時制のないヘブライ語から時制のあるギリシャ語へ。この時聖典の中に矛盾が生じた。世界は創造されている最中であるのにも関わらず。ギリシャ語の時制の操作が加わって。それが遠い昔のある時点(つまり世界の「初めに」)まで遡ることになった。福音書がギリシャ語で書かれた事も影響は大きい。さらにキリスト教はギリシャの哲学と結びつく。アリストテレスの思想と神学との融合である。これが学問として長くヨーロッパを支配した。
現代の日本人の思考法もその伝統の上に成り立っているのではないか。私が今書いている文章の中にそれは明確に現われている。《時制》と《論理》。これを踏み外した文章を私は書くことができない。書いても相手が理解できない。学校では毎日それを児童生徒たちに教えている。「論理的に!」「過去形ですか」「未来形ですか」そして「今でしょ!」と。
17.
「思考即存在」という言葉は「わたしは考える。ゆえにわたしは存在する」を東洋思想的に表現し直したもの。しかしこの言葉を論理的な頭脳で受け止めると「思考しなければ存在していないに等しい」という解釈が出て来てしまう。「ぼやっとしていたり意識を失っていたりする人は存在していないのと同じ。だからもっと考えなさい」と。しかしそれは誤解である。身体がなくても思考できる場所を確保するためにデカルトは「考えるわたし」を抽出したのだ。
時制のある思考に慣れてしまった現代人はやはり「思考即存在」という言葉の中に因果関係を読み込んでしまう。つまり「考えるという行為の後に存在するという認識が来るのだね」と。「思考」が原因で「存在」が結果すると。そうではない。「思考」がそのまま「存在」であり「存在」がそのまま「思考」なのだ。
《時制》と《論理》がどれほど我々の思考を規定してしまっているか。多くの哲学者が実はこの問題に気が付いていて。それを分からせようと語っているのだが。その意味を理解できている人がほとんどいない。《時制》と《論理》のパラドックス。今やそれは世界中に広がってしまった。東洋思想もその影響は免れなかった。そこには翻訳の問題が多く関与しているに違いない。
ただし抜け道はあると思う。一つは言語を言語の機能から解放しようと試みる詩人たちの仕事。もう一つは論理よりも感性に訴える芸術家たちの仕事。但しそれらの多くがやはり《時制》と《論理》に回収されてしまう。「この詩はこういう意味だよね」「この曲には作者の青春時代の複雑な感情が表現されている」「あの抽象画は死の象徴だ」などなど。抵抗は実に困難を極めている。
18.
『時間の比較社会学』(岩波現代文庫。2003年)の中で著者の真木悠介氏は次のように書いている。
《原始人も近代人も、ともにこの現実の世界が、くりかえすものと一回的なもの、可逆的なものと不可逆的なもの、恒常的ものとうつりゆくものとの両立から成ることを知っている。つまり当然、両者はおなじ外界の世界をみている。けれどもそこから、両者はまったく異なった「世界」の像をつくる。原始人にとって意味があるのは、くりかえすもの、可逆的なもの、恒常的なものであり、一回的なもの、不可逆的なもの、うつりゆくものはその素材にすぎない。近代人にとっては逆に、くりかえすもの、可逆的なものの方が背景となる枠組みをなして、この地の上に、一回的なもの、不可逆的なものとしての人生と歴史が展開する。ゲシュタルト心理学における「反転図形」のように、一方の地が他方の図となり、一方の図が他方の地となる》(62頁)
原始人と近代人の「時間」に対する価値観の反転がどうして起こったのか。この問題を解き明かすことは容易ではない。ヌアー族の「時間」についてエヴァンズ=プリチャードが語った言葉を真木氏は引用している。
《彼らは、我々の言語でいう「時間」に相当する表現法をもっていない。そのため、彼らは時間について、我々がするように、それがあたかも実在するもののごとく、経過したり、浪費したり、節約したりできるものとしては話さない。彼らは、時間と闘ったり、抽象的な時間の経過にあわせて自分の行動の順序を決めねばならない、というような、我々が味わうのと同じ感情を味わうことは絶対にないであろう》(65頁)
原始的な生活を営んでいる部族は今でも「時間」を持たずに生きているのであろうか。近代人の末裔である我々はそれを簡単には受け入れられない。
19.
ジェイムズ・グリック『タイムトラベル 「時間」の歴史を物語る』(柏書房。2018年)には古今東西の文学者・哲学者・科学者たちの「時間論」が多角的に紹介されている。第七章から引用する。
《実際には、時間は川などではない。私たち人間には、比喩という素晴らしい道具箱がある。その箱の中には、あらゆる事象に対応できる道具が揃っている。私たちは、時が「経つ」とも言うし、「過ぎる」とも言う。また、時が「流れる」とも言う。すべては比喩だ。「時間は、比喩的文化にとっての液状媒体」だとナボコフは言ったが、これも比喩である。私たちは、時間を、自分たちが存在する媒体ととらえることもある。または、自分たちが所有することも、浪費、あるいは節約することもできる量ととらえることもある。時は金なりという言葉の通り、時間を金のように考えることもあれば、道のように考えることもある。その道も、大きく広い道の場合もあれば、細い道のことも、迷路のように入り組んだ道のこともある(時間を迷路にたとえたのは、やはりボルヘスである)。さらに、時間を糸や、潮の干満、はしご、矢などにたとえる考え方もある。こうした比喩がすべて、一度に使われることもあり得る》(177頁〜178頁)
私が「時間は存在しない」と思いついたのは大学一年の夏の事だ。友人たちとテニスを楽しんでいた。休憩中に隣にいた友人Mに私は云った。「時間って。ないよね」。するとMは「あるよ」と答えた。このやり取りはコミュニケーション不能の体験として私に大きな衝撃を与えた。「時間は存在しない」という事を説明する事の困難さはその後もずっと変わらずにここにある。引用を続ける。
《「リンゴがガーデンテーブルの上に落ちて来るのと同じくらい当たり前に、時間が流れるのだとすれば、それは時間が、何か別のものの中を流れることを示唆する」。ナボコフはそう言う。「そして、その『何か』が空間なのだとすれば、その空間の中には、流れた距離を測る物差しがあることになるかもしれない」/では比喩を使わずに時間について話をすることは果たして可能なのだろうか。おそらくそれは可能だ。/現在の時と過去の時/どちらもおそらく未来の時の中にある/そして未来の時は過去の時に含まれる/T・S・エリオットの『四つの四重奏』という詩の一節だ。これは確かに比喩ではないのかもしれないが、やはり比喩的な表現とは言えるのではないか。「の中にある(present in)」、「に含まれる(contained in)」などは、単に文字どおりに解釈するわけにはいかない、含みのある表現とは言える》(178頁〜179頁)
20.
「私がいる」の過去形は「私がいた」。「本がある」の過去形は「本があった」。「る」を「た」に変えるだけで記述が現在の事から過去の事になるのはなぜか。時制について真正面から取り組んでいる研究もある。『時間と言語を考える─「時制」とはなにか─』(開拓社。2016年)の中で著者の溝越彰氏は日本語の「た」について次のように報告している。
《「た」が表すものは、本来、「動作などの継続」、「結果の存続の確認」であり、要するに、話し手の意識の中で確定されているものとして捉えられる出来事であって、「過去」ではないことになる。/ちなみに、筆者の故郷である山形県村山地方には、とりわけ年配者の間に、次のような「た」の用法がある。(1)a.(電話に出て)「はい、佐藤でした」/b.(人の家を訪ねて)「はいっと(=こんにちは)、鈴木でした」/いわゆる標準語なら、たとえば、テレビ番組の終わりなどに、「提供はトヨタでした」とか、「担当は吉田でした」のような使い方をするが、これでは、電話を切るときや帰っていくときに名乗るようなもので、「た」=過去の標識と思っている人には奇異に感じられるだろう。けれども、この用法は、出現の結果として「現存」しているという認識を示す「た」の本来の機能を留めていると考えることができる》(117頁〜118頁)
無反省に「た」=過去形と思っている人は多い。《時制》のない中国語に影響を受けて作られている日本語に《時制》の力が働いているのはなぜか? これもまた近代以降の欧米化による日本語変革の弊害と云ったら言い過ぎだろうか。「みーつけた」「あたった」「やった!」などの「た」は例外なのか? 記憶に基づく話の中で「そこで窓を開ける。すると犯人がいる。今まさに人を刺し殺そうとしている」という証言と「そこで窓を開けた。すると犯人がいた。今まさに人を刺し殺そうとしていた」という証言の違いは何か? 溝越氏は結論として次のように云う。
《「かつてこの山には城があった」というような純粋に「過去」と思われる「た」も、実は出来事自体の時間を表すものではなく、回想という形で話し手の意識に上っているということを示すだけだということになるだろう。まとめると、「た」は、事態として成立してしまっているという認識を表すもので、当該の出来事が「いつ」起きたかということは問題にされない。この点で、時間そのものを客観的に過去か現在かと区別した上で、それに従って違う時制標識を使い分けなければならない英語などの言語とは決定的に異なることになる》(123頁)
これでますます日本語を使って「時間」について考えることが難しくなった。墓穴を掘る!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?