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2015年の作文・3月

3月1日

◇中也が貘さんに仕事の世話をする

 

青木健『中原中也──永訣の秋』河出書房新社の中で、ぼくがいちばん気に入っているエピソードを引用する。

 

《山本文庫『ランボオ詩抄』が刊行されて間もなく、中也は、その頃永福町から田園調布へ移り住んでいた中垣竹之助、泰子夫妻を訪ねた。/六月三十日付中垣竹之助宛の中也の礼状によると、中垣は体調を崩していたようで、中也は、鍼灸を生活の糧としていた詩人山之口貘を紹介している。中也としては、中垣と山之口双方に良かれと思って橋渡しをかって出たわけで、中也の世話好きな一面がよく出ている。》(「第五章 秋日狂乱」より)

 

中垣泰子は中也にとってはかつての恋人。その旦那の身体を心配して鍼灸師を紹介する。しかもそれが貘さんだって言うのだから面白い。中也より貘さんの方が4歳年上だが、中也のことだから兄貴面して面倒をみていたのかも知れない。貘さんは中也のことをどう思っていたのだろう。二人の間には、佐藤春夫や高橋新吉、それに金子光晴や草野心平などの詩人がいるから、つながりをたどっていけば他にも面白い話が出てくるにちがいない。

 

 

◇雨の中の街

 

お米を五キロ買って抱えて帰る

雨の中

傘を片手に

雨の中

ポケットにはクレジットカードとレシート

雨の中

足早に駅に向かう人々とすれちがう

雨の中

ケータイにメールが入る

雨の中

両手がふさがっているからメールの内容は確認できない

雨の中

オフィスビルの玄関前で少し雨宿りしようか迷う

雨の中

真っすぐ帰ろう

雨の中

長靴チャプチャプ

雨の中

家に着いた

雨の中

メールをチェック

雨の中

「お味噌が切れたのでお味噌もお願い」

雨の中

さてぼくはそのあとどうしたでしょう

雨の中

それとも

家の中

ヤモリが一匹壁を這う

 

 

3月2日

◇ズンドコ

 

悲しいズンドコを見た

 

 

3月3日

◇CD

 

音楽をCDで聴くこともめっきり少なくなった

レコードはプレイヤーがないから聴けない

 

 

3月4日

◇ホームパーティ

 

大切な友人夫妻が移転する

きょうは家に呼ばれて

お別れのパーティーをした

おいしい日本酒を買っていった

おいしいお鍋をごちそうになった

ウノをやった

女の子は歌が好きで

男の子はプラレールに夢中

四人は東京暮らしを三月で終え

四月から北海道での生活が始まる

ああ我が友よ

どうか幸せな人生を送ってほしい

 

 

3月5日

◇ちがいない

 

太陽と月の光を浴びながら生きてきたのがわれわれだ

それほどのちがいはないのが当然で

10年生きれば10年分の人間で

20年生きれば20年分の人間だ

鼻をほじれば鼻糞がとれ

ほじり過ぎれば鼻血も出る

あっちは高級でこっちが低級だとか

あいつはバカッタレでこいつがアホンダラとか

ちっちゃなちっちゃなちがいを見つけては

一喜一憂の比較論

地球は同じ太陽の周りをぐるりとまわるのだ

月は同じ空の上で笑ってこっちを見ているのだ

人間なのだ

だれもかれも

ちがいなんかあるわけない

だから

人間らしく鳴こうじゃないか

ちがいない

ちがいない

これが人間様の鳴き声だ

ああ

ちがいない

ちがいない

 

 

3月6日

◇静電気の国

 

静電気の国は静電気がバッチバチ

街中どこでもバッチバチ

ドアノブでバッチ

自動車でバッチ

握手でバッチ

それだけじゃない

あくびしてバッチ

くしゃみしてバッチ

顔洗ってバッチ

走ってバッチ

電車でバッチ

エレベーターでバッチ

おはようバッチ

ランチバッチ

居眠りバッチ

電話がバッチ

仕事をしても

遊びに行っても

夜の街でもバッチバチ

ああどうしてこうも毎日バッチ

静電気だけで大都市が動いている

静電気の国では原子力も火力も風力もいらない

静電気レンジ

静電気コンロ

静電気炊飯ジャー

静電気トースター

静電気ストーヴ

静電気電化製品に囲まれた生活

夢のような低エネルギー低炭素低コスト社会

地球にやさしいけどちょっと痛い

新しいエネルギー政策のモデル

 

 

3月7日

◇ありそうでない音楽

 

プログラム1番

リヒャルト・ストライプ作曲

交響詩「実に不思議な村」より

「汝ゴジラの前に跪き給え」

 

プログラム2番

ヨハン・セバスチャン・ハッパ作曲

無伴奏声組曲

第1番「あくび」

第2番「いびき」

第3番「しゃっくり」

 

プログラム3番

フレデリック・ショクパン作曲

エチュード第10番「分け目の曲」

 

 

3月8日

◇ありそうでない本の話

 

マルクズの『見本論』によれば見本ばかり見ている消費者は見れば見るほど色んな物が欲しくなるがそれだけでは空腹を満たすことができないために欲求不満が溜まり最終的に苛立ちのあまりそれを破り捨てるに至る、とのことである。

 

 

3月9日

◇軽蔑

 

ぼくの中に軽蔑が棲みついている

軽蔑が時々笑いのスイッチを押す

するとそれは嘲りになる

実に耳障りな嘲りに

 

軽蔑はしばしば傲慢になる

他人を見下ろし思いのままに操れると思う

ああなんて卑しい精神なんだ

ぼくはじぶんが嫌になる

 

しかしそれこそが軽蔑の思う壷

軽蔑の最終目標は

自分自身を軽蔑させることにあるのだから

 

 

3月10日

◇雨の火曜日と政治家

 

政治家は市民に訴えた

頭上の飛行機は安全です

それでもズンドコは悲しい

 

 

3月11日

◇四年

 

四年経つと大学生は卒業します

四年経つと統一地方選挙があります

四年経つとオリンピック

四年経つとワールドカップ

四年経つと閏年

四年経っても心はまだ復興しません 

 

 

3月12日

◇読書

 

加藤邦彦『中原中也と詩の近代』角川学芸出版

新しい角度から中ちゃんの詩に光をあてようとする意欲作だな。

 

 

3月13日

◇小唄

 

小唄と長唄と都都逸の区別がつかない

まあ先ず小唄からはじめようと思う

三味線がないからクラシックギターで

とりあえず「サーカス」を歌ってみる

 

 

3月14日

◇妻

 

妻は四十四歳になった

妻には三人の子がいる

妻のためにランチを用意した

ナポリタン

妻のためにおやつを用意した

クレープ

妻のためにディナーを用意した

フライドチキン

妻はむねやけ気味だとつぶやいた

 

 

3月15日

◇小説と私

 

小説が私を百年前に連れて行って

じぶんが歴史と切っても切れない関係にあることを教えてくれた

だから私は百年後のために

今ここでしっかりとした足取りで歴史を歩むと決めた

 

 

3月16日

◇記念

 

みんなの記念日がまた一つ増えてよかったね

 

 

3月17日

◇雨あがりて春来る

 

ちょうど夜中に雨があがって

春が来ました

中原中也の「春宵感懐」を思い出してごらんなさい

《雨が、あがって、風が吹く。雲が、流れる、月かくす。みなさん、今夜は、春の宵。なまあつたかい、風が吹く。》

ああまさに

なまあったかい風でござるよ

 

 

◇霧の都

 

霧の都に霧かかる

港も駅も陸橋も

霧につつまれ寝静まる

 

夜明けを待つのは細い月

夜空と森と風たちに

夜通しメルヘン聞かせてる

 

それからしばらくすると東の空が明るくなったのでありました

 

草木の吐息のやさしさに

小鳥もゆっくり目をさまし

霧の都の朝告げる

 

 

3月18日

◇タイムスリップ

 

きのうまであんなに細かったお月様が

今夜はあんなにまんまるなので

待てよ、待てよ

ぼくはすっかり眠りこけてしまって

実は何日もたっているのではないかと疑ってみる

ぼくが運転する車の前に酔っ払いが一人現われた

ふらふら千鳥足

意味不明な唄を大声でうたっている

 

ぷるつなぴったんきたぴったん

いろはにほへと地理国語

ぷるつなぴったんきたぴったん

イーアルサンスー理科社会

ぷるつなぴったんきたぴったん

わらべの唄に誘われて

ぷるつなぴったんきたぴったん

ねーうしとらがついてゆく

 

おそらくこんな唄だった

気がつくと

酔っ払いはどこかへ

瞬間移動してしまった

 

 

3月19日

◇霧になる雨

 

いつおわるともない雨の中

傘を持たずに出て行く君に

かけることばもないままに

 

 

3月20日

◇句

 

ひまあられ昼夜分かたず中也読む

 

 

3月21日

◇春の土曜日

 

土曜日の朝の道路は比較的に静かです

散歩をしていたら桜の花が咲きはじめていました

ちょっとぬるめの珈琲がおいしい季節です

気持ちに余裕がある人は温泉に浸かって曇り空を眺めるのもよいでしょう

ああ あそこが新しい高速道路の入口ですね

あのおじさん あんなに勢いよく鳩に飛びかかってどうしたっていうのでしょう

 

 

◇マラルメの教え

 

《マラルメはジュール・ユレというジャーナリストのインタヴューに答えて、詩が時に難解もしくは晦渋な印象を与え、秘教性を帯びなければならない理由について、次のように明快に述べている。「あるひとつの対象を名づけるということは、徐々に推理してゆくことによってもたらされる詩の楽しみを、四分の三までも取り除いてしまいます。対象をほのめかすということ、これこそがまさに夢想というものです。象徴が形成されるのは、このような神秘性の完璧な行使によってなのです。あるひとつの魂の状態を示すために、あるひとつの対象を少しずつ喚起してゆく、あるいは逆にあるひとつの対象を選び取って、そこから一連の解読作業を通してあるひとつの魂の状態を引き出してゆく、このことが肝要なのです。(中略)詩にはつねに謎が含まれていなければならず、文学のめざすところもほかならぬ対象を喚起するということにこそあるのですから」。》

 

上記の文章は、宇佐美斉『中原中也とランボー』筑摩書房、「序章 詩を読むという行為について」からの引用である。

人が詩でなにをやろうとしているのか、また詩からなにを得ようとしているのかが、これではっきりする。考えてみたら、伝えたい事が手にとってわかるようなものならば詩なんか書かなくて済んでしまうのだ。「ほらこれ」と言って渡しておしまいだ。「赤信号=止まれ」などを例に考えればよい。だから、すべての詩はある意味で「象徴」であると言ってもよい。こうなると象徴派というカテゴリーは無用になるだろう。

何を言っているのか分からないから難しいのではなく、分かるまで繰り返し読むことを読者は心掛ける必要があるのだし、詩人は分かってもらえるまで書き続け、語り続けることを止めてはならないのだ。

逆説的に聞こえるだろうが、そこで「分かる」ことはそれほど重要ではない。分かろうとする者と分からせようとする者の無限の接近、それ自体が無上の財宝だ。至高体験だ。

ぼくは今、中原中也の詩集を毎日読んでいる。もう三ヶ月以上が経つ。だからかもしれないが、マラルメの云う《あるひとつの魂の状態を示すために、あるひとつの対象を少しずつ喚起してゆく、あるいは逆にあるひとつの対象を選び取って、そこから一連の解読作業を通してあるひとつの魂の状態を引き出してゆく》営みこそが、詩人と読み手の理想の関係であると実感する。

マラルメからこんな素敵なことを教えてもらえるなんて思ってもみなかった。

 

 

3月22日

◇読書

 

清水徹『マラルメの〈書物〉』水声社

 

 

3月23日

◇読書

 

『リルケ詩集』(神品芳夫編訳)小沢書店

 

 

3月24日

◇読書

 

リルケ『マルテの手記』(松永美穂訳)光文社古典新訳文庫

 

 

3月25日

◇家賃

 

家賃を払う

それから

駐車場代も

それから

妻に給料

生活は

真にたいへんである

 

 

3月26日

◇ドーナツ

 

ドーナツを四つ買いました

妻と三人の子どもたちのためのおやつです

テーブルの上に並べておきました

小学生の娘がいちばんに帰ってきました

娘はドーナツを見つけると小躍りして喜びました

そして四つのドーナツを見比べ

嬉しそうに一つを選びました

ぼくにはどれも同じように見えましたが

娘にはそれがいちばん大きなやつに見えたのでしょう

手を洗い着替えをして娘は行儀良く椅子に座りました

そしてドーナツをひとくちかじりました

もうドーナツは「〇」ではありません

アルファベットの「C」の形です

笑顔の娘は「おいし」と早口で言ってふたくち目に入りました

ドーナツは「し」の形です

やがて「―」になり「-」になり「・」なって消えました

娘はテーブルに残った三つの「〇」を眺めていました

「〇」の向こう側の世界を一生懸命覗きこむようにして

それでぼくは

ドーナツが輪になっている理由がなんとなく分かったような気がしました

 

 

3月27日

◇ドーナツとドーナッツ

 

ドーナツドーナツ ドーナッツ

どうなつてるの? ドーナッツ

あなたの友だち ピーナッツ

ドイツで都々逸唄っているのはどこのどいつです、って言いたくなるのはわかるけど

キスとキッス

クラシックとクラッシック

 

 

3月28日

◇春と○○

 

春休みの子どもたちはのん気なものです

ゲームおやつゲームおやつ

喫煙コーナーで煙草を吸っている大人たちものん気です

すったりはいたりすったりはいたり

煙草のけむりものん気です

ゆたりゆたりと青空に舞い上がり

 

ぼくは図書館で午後の素敵な時間を過ごします

リルケを読んだりカフカを読んだり

 

宮沢賢治なら「春と修羅」

中原中也なら「春と赤ン坊」

 

きょうの陽気は中也でしょうか

 

菜の花畑で眠ってゐるのは……

菜の花畑で吹かれてゐるのは……

赤ン坊ではないでせうか?

 

キャラメルをほおばりながら春の日の夕暮を見つめます

 

 

3月29日

◇語り合う仲間たちへ

 

なんでもいいじゃないか

何かを話題にして語り合えれば

相手の表情を見ながら

じぶんの考えた事を口にして

こちらの表情と気分を伝えればいいじゃないか

読み取るものがあったり

読み取られるものがあったり

それで一日にほんの少しでも変化があれば

生きてた甲斐があるってもんだよ

誰かが残した言葉があらゆる媒体を通して

ぼくに流れて

君にも流れて

彼にも

彼女にも

流れて流れて

そして消えてゆく

ぼくらの言葉も同様だ

流れて流れて

消えてゆく

それでいいんだよ

 

 

3月30日

◇詩人のスタイル

 

詩人というのはのんだくれで社会的には生産的なことは何もせず思いついた時だけちょろっと原稿にペンを走らせるようなタイプの人間だというイメージがどこかにある。あくまでもイメージだが。実際は、詩人の数だけスタイルがあるのだろうけれど、ぼくはあえて三つのタイプに分類してみたい。

 

第一のタイプは、物事を凝視し、言葉を駆使して、その本質に迫ろうとする詩人。彼らは外界の事物を認識し、現象の奥にあるものを掴むまで観察を続ける。街を歩き、自然を感じ、瞑想と読書に耽りながら、詩想を意識的に興させる。

《詩というのは感情を表現するものだと人々は言うが、それは違う。(感情ならもう幼いときから持っている。)詩は経験から生まれるのだ。一つの詩のために、たくさんの街や、人間や物を見なければならない。動物を知り、鳥がどんなふうに飛ぶかを感じ、小さな花が朝方開くときの仕草を知っていなければならない。知らない地方で通った道のことを思い返すことができなければならない。思いがけない出会いや、長いあいだそうなることを予感していた別れのことも。》(リルケ『マルテの手記』より)

第一のタイプはマルテが云うように経験重視の詩人である。彼らはポエジイを積極的につかまえにゆく。例えば、宮沢賢治の心象スケッチはこのタイプの好例であろう。また中原中也が東京の街を歩いて、歩いて、歩き抜いた詩人だったことを想起してもよい。

 

第二のタイプは、じっと待っている。何かが向うからやって来るまで、ひたすらじっとしている。やがて天啓に導かれるように書き始める。あたかも何者かが詩人の体に憑依したかのようにペンが走る。

《もっとなごやかな、ぱっと明るい、素晴らしいもの。なんだか、わからない。たとえば、春のようなもの。いや、ちがう。青葉。五月。麦畑を流れる清水。やっぱり、ちがう。ああ、けれども私は待っているのです。胸を躍らせて待っているのだ。》(太宰治「待つ」より)

第二のタイプはこの話の語り手のように、ひたすら受身である。詩想が湧いてくるのを焦らずに待ち構えることができる忍耐の詩人だ。沖縄出身の山之口貘は、45歳で早くも仕事をリタイアし、詩一本で生きると決め、一日中コーヒー店で煙草を吸いながら誰かを待っていたらしい。ぼくはこの貘さんのスタイルがとても好きだ。

 

第三のタイプは、現実格闘型の詩人である。第一、第二のタイプがいずれも現実逃避型であるのに比べ、第三の詩人は、ベクトルはいつも現実に向けられている。言葉で理想を描くことよりも、現実を変革することを強く望んでいる。ゲーテやユゴー、そしてトルストイなどが思い浮かぶ。バイロンやシェリーを加えてもよい。

 

今回はあえて三つに分類してみたが、実際はどの詩人も、どれか一つに規定することができない。例えば石川啄木『一握の砂』を読んで、現実を乗り越えようとする意志を感じる者はいないだろう。しかし『呼子と口笛』の詩篇を読んだ者は、全く逆の印象を受けるにちがいない。人間は変わるのだ。詩人も変わるのだ。

 

第三のタイプが挫折して、第二のタイプになることもあるだろう。反対に、第二のタイプが何かをきっかけにして第三のタイプに変貌することもある。ぼくは目下第一のマルテ型なのだとじぶんを見ている。

 

引用文献

リルケ『マルテの手記』(松永美穂訳)光文社古典新訳文庫

太宰治『走れメロス』集英社文庫

 

 

3月31日

◇厭きた

 

ぼくは中也の詩に厭きた

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