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金魚のきんちゃん

 娘がまだ小学4年生だった頃に近くの夏祭りですくってきた金魚。
 数匹いたのが徐々に減ってきて、そして最後の1匹がこないだ死んだ。よく生きたなあと思う。うちに来てから7年ほど生きていて、大きさも来たときに比べてかなり大きくなっていた。

 妻はいつからかその金魚に「きんちゃん」と名前をつけていて、ぼくが「めすやで」というが「そうなん?」と答えその後もずっと「きんちゃん」と呼び続けていた。

 玄関においた水槽に毎朝毎晩、えさをやり、何日かごとに面倒だなァと思いながら水を替えた。旅行に行くときは人に預けたりもした。
 金魚の世話は、ぼくの生活の一部として張り付いていたのだ。 

 先日の夜遅くに帰宅したとき、水槽の水が汚れていて金魚が水面で口をパクパクさせていたので明日は水を替えてやらないといけないな、と思っていた。その後風呂に入り、晩酌をしてすっかりいい気分になった真夜中頃、玄関のそばを通って水槽に目をやると、金魚の姿が見えなかった。近づいて覗き込むと、きんちゃんは体を横たえて水面の水草に絡まるように浮いていたのだ。しかしまだエラは動いていたので、ぼくは水を替え酸素を与えなければと必死になって水槽の水を交換した。酸素のタブレットもあるだけ入れた。
 酔いはすっかり消えていた。

 それから中腰のまま少し様子を見ていると、やがてきんちゃんは泳ぎだして元気を取り戻したかのようだったので、しばらく眺めてからぼくは眠ることにした。

 翌日、きんちゃんは元気に水槽の中を泳いでいたので、よかった!と大きく息をついた。

 きんちゃんの目は随分前から磨り硝子のように曇りだしていて、もうかなりの高齢なのだろうとは思っていた。たくさんいた仲間がいなくなり、たった一匹で水槽の中で泳ぐ姿はいつも寂しそうだった。ぼくはずっと、すまないなと気にしながらも仲間をいれることはしなかったのだ。

 その日の午後だった。玄関を通りすがった妻の、あっという声が聞こえた。その声でぼくはすべてを悟ったのだけれど、それでも妻に、何かあったのかと尋ね、妻の返答を聞き、玄関に立って水槽を見、横になって水の中をたゆたってるきんちゃんの姿を見つめることになったのだ。

 よく生きたなあ、きんちゃん。
 ぼくは思う。そして、
 ごめんな、と思う。

 水槽は水を抜いてまだ玄関においたままになっている。廊下を通るたびにいつも水槽を見やっては、もういないんだな、と気付かされる。いなくなって初めて、いつでもきんちゃんのことを気にかけていたのだなと気がついた。
 毎朝毎晩出かけて帰ってきて、空になった水槽に餌をやろうとしてまた気づく。

 
 玄関のそばを通るときにふと振り返る。そこにはくり抜かれた象嵌のあとのように、きんちゃんのための空間が残っているような気がするのだ。その真空の空間は、あたかも深い傷跡のようにぼくの心にもひっそりと、だが確かな形を持って存在している。
 きんちゃんの、光を反射させてきらめきながら泳ぐ姿がまだ見えるようだ。
 それほどまでに、いつの間にかきんちゃんの存在は大きなものになっていたのだな、とぼくは思い知らされた。
 きんちゃんがいなくなったときから、それと反比例するかのようにきんちゃんの思い出は大きく膨らんでくるのだ。

 しかし、いずれはその水槽もしまわなければならない。

 きんちゃんの思い出も次第に薄らいでいくのだろう。それは、そのものの死を時間の経過とともに受け入れるからなのか。それともそのものの記憶が、泳ぐ姿やきらきらと輝く色、佇まいの記憶そのものが、自分の中から消えていくからなのだろうか。



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