見出し画像

小説「暗闇」

 男は乗り込んだ電車に空席を見つけそこにそっと腰を下ろした。隣りあう女性の体に触れないように、そして細かい塵が舞い上がらないようにしながら。
 世界中がウイルス性感染症の恐怖であふれかえっていた。そして、感染症に対してとても脆弱な(思いのほかというべきか、あるいは予想通りというべきか)街や国、そして人々の心は、感染症の波に次々と飲み込まれていった。
 しかし今や、その感染症は人々の心にお馴染みのものとなり、”過剰に恐れる人”と”そうでない人”の2分化が進みつつあったのである。

 今日は土曜日で、男の職場は休みであったにもかかわらず、彼は感染症の対策のために仕事場に出勤することになった。確実に、男の職場の周辺まで、そのウイルスは迫ってきていたのである。
 帰りの電車の中には、休日にもかかわらず多くの乗客が乗り込んでいた。恋人同士や、年配の夫婦、子ども連れなど、平日の夕方とは乗客の層はまるで違っていた。男は、沈んだ面持ちで、時折眉間に深いしわを刻みながら座っていた。
 目の前に吊皮を持って立つ男性がせき込んだ。男は目の前の男性をにらみつけ、そしてマスクの隙間をできるだけ締めるようにした。胸の動悸が強くなり、まるで心臓が喉の下のあたりで収縮しているかのように感じた。
 男はカバンから文庫本を取り出して読み始めた。

 次に電車が駅にとまった時、男の前に立っていた男性は去り、代わりに一組の家族が乗り込んできた。小さな女の子と男の子、そしてその母親とその母親の母らしき女性の四人。子ども二人はマスクを着けていない。
 女の子(五歳くらいか)が、男の二つ隣に空席を見つけ、そこに座り込んだ。少し年上に見える男の子は、女の子の前に立ち、手を伸ばせばぎりぎり届く吊革に両手をかけた。彼らの母と祖母は、男の右斜め前にあるポールをつかんで立ったが、子どもたちの方を見るそぶりもなく、大きな声でしゃべりあっていた。
 男の子が吊革をつかみながら、足をぶらぶらさせているが、母親たちは知らんぷりでしゃべり続ける。男の子と女の子がマスクなしでしゃべっていても、もちろんお構いなしだ。
 女の子が男の子のかぶっていた帽子を奪い、男の子がそれを奪い返そうと騒ぎ始める。男は手に持った本の文字を追うが、内容はまるで入らない。その時、男の隣で静かに座っていた女性のが小さく舌打ちをした。彼女はおもむろにが立ち上がり、男の子に向って、
「どうぞ」
 と震える声で言った。そして女性は、そこから逃げ去るように歩き去っていったのだ。
 男の子は、妹から帽子を奪い返すと、だまって男の隣にできた空席に座り込んだ。
 男は、母親たちを見上げた。
「や、あの人譲りやったわ」
 男は耳を疑ったが、それが彼らの母親が、その母にささやくように言ったセリフだった。しかもそれは、その席を立った女性を小ばかにするような言い方であった。
 その後彼らの母たちは、彼らの前、すなわち男のすぐ斜め前に移って吊革を持った。さすがに彼女らはマスクをしていたが、その大きな鼻の穴は(二人の鼻の穴の形はそっくりだった)マスクから丸々はみ出していた。そして呼吸をするたびに、甲高い笑い声をあげるたびに、そこからウイルスが吐き出され、男の頭上に容赦なく降りかかってきているかもしれないのだ。恐怖と苛立ちとが男の感情を煽りはじめる。
 男は、母と祖母の顔をじっと見上げた。しゃべる声に合わせて動く白いマスクは、まるで別の生き物のように自らの意思で動いているかのように見えた。男の中にある感染症に対するストレスが増幅し、再び胸の鼓動が激しくなる。
「もう少し、静かにさせたらどうなんですか?」
 男は祖母の方に向って言った。しかし祖母は一瞬のあいだ男の方を見ると、
「なんか私言われみたいなんだけど・・・」
 と娘に言って笑った。子どもらも男の方を見ている。
「席を譲られたら、礼を言うもんじゃないんですかね?」
 男はさらに言った。
 彼女たちは顔を見合わせて、そして吹きだした。確実に飛沫が舞う。マスクの隙間から、そしてあらわな鼻腔から。「なんか変な奴かも」と彼女らはつぶやき、子どもたちに向って、
「何あれ?」
 と言った。
 男はめまいを覚え、うつむいて目を閉じた。そしてその暗闇の中で、尻に兄妹の暴れる振動をずっと耐えながら感じていた。暗闇の中で、黒いどろどろとしたヘドロのようなものが渦を巻いて動き続けていた。
 しばらくして、彼女らは出ていった。出ていく間際、女の子が男の方をにらみつけるように見つめながら去っていった。母親たちは、子どもたちに目もくれず自分たちだけで電車を降りていく。男は、非常に複雑な思いを抱きながら、女の子の鋭い、憎悪に満ちた、しかしとても澄んだ瞳を見つめ返したのだった。

 * * *

 男は電車を降りた。秋の陽は落ちてすっかり暗くなっていた。駅の周りにも人は大勢集まって、楽しげに会話をしている。男はカバンから取り出したアルコールジェルで手の消毒をして、家へ向かった。
 帰り道で一度だけ空を見上げると、まるで地上を浄化するかのような白い光を投げかけている月が浮かんでいた。三日月より少しだけ大きく膨らんだ月だった。
 家に着くと、ガレージにある車のエンジンはまだ少し暖かかった。国産の小型車ではあるが、男はこの車を気に入っていた。彼は、ひとしきりあたたかいボンネットを愛撫するかのように撫でたあと、家のチャイムを鳴らした。
 玄関の電気がつき、男の妻が扉の鍵を開けた。男は玄関の扉を開け、家の中に入る。
 「予定より早く帰ってこれたんだ」
 男は言った。
 「私、今沙羅を塾に送って帰ってきたばっかりなの。」彼女は言った。「それより早くマスクはずして捨ててくれない?」
 妻は、男に背を向けたまま玄関の荷物を整理しながら言った。
 男は深いため息をついた。
 「沙羅が塾行く直前になって、みんなお弁当持ってきてるっていうもんだから、もうバタバタだったのよ。もっと早く言ってよねって感じ。それでなくても忙しいってのに。」
 「なあ」
 男は、マスクをゆっくりと外しながら言った。
 「なあ、ちょっとこっちを見てくれないか?」
 玄関の水槽で金魚を一匹飼っていた。だんだん数が減っていき、今では立った一匹しか生き残っていない。その水槽の水がひどく濁っていた。
 「なによ、忙しいのに」
 彼女は苛立ちを隠さず言った。
 「いや、なんでもないんだけど・・・マスク」
 男はマスクを彼女に差し出した。
 「そこにマスク捨てるゴミ箱があるから。そこに放りこんどいてよ」
 男はだまってマスクをゴミ箱に捨てた。
 「もうそろそろ、金魚の水換えしないといけないな」
 男は言った。
 「そうよ、早く変えないと死ぬよ。かわいそうに」
 「別に君が水替えしてくれてもいいんだけどね」
 男は、苦笑いしながら言った。玄関の薄暗い明りの中で、妻の影が一瞬だけ止まったように見えた。
 「そんなことより、玄関で服脱いで。菌が家の中に入っちゃうから」
 「菌じゃなくてウイルスなんだけどね」
 男は言いながら、スーツを脱いで妻に手渡した。
 「今日は最悪だったよ。休日なのに急に出て来いってさ」
 男は言った。しかし彼女は、それには答えずに、
 「携帯もちゃんと消毒しといてよ。そこにアルコールあるから」
 と言った。
 「そこまでしなくてもいいんじゃないか? 今日はいつもより人と接したりしてないんだし」
 「そんなの関係ないじゃない。外から帰ってきたっていうだけで汚染されてるんだから、あなたは」
 女はせわしなく動きながらスーツをハンガーにかけている。電灯の下で、壁に映った彼女の影が、まるで揺らめく炎のように動いている。
 「なあ、そこにハンガーをかけると、体をひっかけていつも落としてしまうんだよな」
 彼女はかまわず、ハンガーをドアの上にかけ続ける。
 「終わったらはやくお風呂に入ってちょうだい。沸かしてあるから」彼女は言った「菌をまき散らしたら最悪だし、ちゃんと洗ってよね。沙羅には絶対感染さないでよね」
 「わかったよ」
 男は再び強くため息をついた。廊下の上で、男の背中は丸くなり、異様なほど上半身がだるくなっていた。
 「最近家に帰りつくと、異常に疲れるんだ。通勤時間が長いせいだろうかね。どう思う?」
 「そうなんじゃない?」彼女はそっけなく言った。「下着とかは全部洗濯機の中に突っ込んどいてね。洗っちゃうから。」
 そう言うが早いか、彼女は”カチリ”と何かがはじけるような乾いた音をさせて玄関の電気を消し、リビングの方へと戻っていった。
 電気が消え、男は暗闇の中に取り残された。ちっと小さく、舌打ちをした。
 しばらくの間、男は、下着姿と靴下という半裸の状態で、玄関で立ちつくしていた。暗闇に包まれたまま、しばらくの間身動きもせず、じっと立ちすくんでいた。体が冷え、震え、寒さで歯がカチカチと鳴り始めたが、男はそれでも動かなかった。まるで暗闇に、体と精神が溶け込んでいくかのようだった。その間、彼は何も考えることができなかった。ただ、冷え続ける肉体を感じ、風呂場の換気扇の唸るような回転音だけに耳をすまし続けていた。
 やがて、男は暗がりの中をゆっくりと風呂場に向かって歩いて行った。その姿はまるで処刑台にむかう死刑囚のようでもあった。男はそのまま電気をつけずに風呂場へ足を踏み入れ、まるで倒れこむように風呂場の地面にじかに座り込んだ。地面は冷たかったが、彼は気にしなかった。
 風呂場の窓からは、カーテン越しに薄暗い月の明かりが入り込み、次第に暗がりにも目が慣れてくる。排水溝からは、ぼこぼこと深いところで何かが流れているような音が断続的に聞こえていた。
 月の薄明かりが、男の疲れ切った肢体をぼんやりと浮彫のように浮かび上がらせている。それをぼんやりと眺めながら、男は暗く濁った水の中で泳ぐ一匹の金魚のことを思い浮かべた。心臓の動悸が、どくどくと彼の喉を鈍く突き上げてきた。

読んでいただいて、とてもうれしいです!